電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意すると決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

日本史 古代編 《 死刑廃止が京の騒乱を招いた――渡部昇一 》

2024-09-24 | 04-歴史・文化・社会
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律令によれば、強盗によって反物(たんもの)を15反(たん)以上盗んだものは絞首刑であるが、弘仁の格では、15年の重労働となる。しかし実際の警察当局は、15反ではなく14反ということにして、その15年の重労働さえも軽減するということをやる。驚いたことには、それよりも、さらに寛大になって、強盗が人を殺し、品物を盗んだ場合は、その盗んだ品物だけを問題にして、殺人は問わない、という刑罰の盗品主義になった。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p284 )
4章 鎌倉期――男性原理の成立
――この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した
(1) 武家文化の本質とは何か

◆死刑廃止が京の騒乱を招いた

面白いことには、実質上の死刑廃止が行われるようになっても、律令のほうの死刑の項目は削除されたわけではない。

検非違使庁の慣例が実質上の法文となっても、これとは別に、律令は律令としてあるという状態になった。

つまり成文法と慣習法との両方があって、両者にはかなりの相違が出てきたのであった。そういう場合、法律のほうが理想的で、実際のほうが残酷に傾くというのが他国の例であるが、日本のほうは、成文法が厳しく、実際の警察のほうが、どんどん人道主義に流れてしまったのである。

たとえば殺人は律令では死刑であるが、嵯峨天皇の別勅(べっちょく)、つまり弘仁(こうにん)の格(きゃく)によって、15年の役使(えきし)、つまり重労働で済ませることになった。

これだけでも途方もない寛大さなのに、さらに一歩進んで次のようになる。

律令によれば、強盗によって反物(たんもの)を15反(たん)以上盗んだものは絞首刑であるが、弘仁の格では、15年の重労働となる。しかし実際の警察当局は、15反ではなく14反ということにして、その15年の重労働さえも軽減するということをやる。驚いたことには、それよりも、さらに寛大になって、強盗が人を殺し、品物を盗んだ場合は、その盗んだ品物だけを問題にして、殺人は問わない、という刑罰の盗品主義になった。

それがさらに進むと、人を斬り殺しても、物を盗らなければ無罪となった。はじめは朝廷のご仁慈の気持ち、つまり人道主義から出たことで、犯人の罪を、なるたけ軽くしようという趣旨だったのである。それが逆に、はなはだしく良民を苦しめることになったのである。

もちろん死刑廃止が実行された背景としては、比較的犯罪そのものが少なかったという好ましい文明状況があったのであろうが、悪いことをしても、たいしたことがないとわかれば、悪いことをする奴が出てくるのは、残念ながら、人の世の常であったのである。これなどは、犯人の人権を重んじすぎて、良民の人権が損なわれるほうは忘れてしまうという、女性文化の一つの傾向として興味深いものがある。かくして群盗は京都の名物となった。

戦後しばらくの間、「第三国人(だいさんごくじん)」が横行して警察があまりあてにならないことがあった。そのころ、新橋マーケットの松田組が「第三国人」相手にピストルを撃ち合った事件などはその一例である。ほうぼうの地方でそういうことがあったと聞いている。

敗戦直後のゴタゴタは一時的現象であり、そのうち警察も権威を取りもどしたらしいが、もし、ああいう状態が何十年も続くとなれば、一般の小売商人などは、ともかく自分を守ってくれる人に、信頼を寄せるであろう。どんな憲法が出ても、犯人の人権だけ守ってくれるのでは、それは普通の人には関係ないことになったであろう。そして治安のことは、何とか組の親分に頼るようになったであろう。

このような戦後の混乱を考えると、平安末期における武家の台頭のことが、よくわかるような気がする。

京都の検非違使と鎌倉の武家が、どのくらい手応えが違っていたかを示す、典型的な例を一つ挙げてみよう。

文治(ぶんじ)元年(1185)、京都の治安の責任を与えられたのは北条時政(ときまさ)である。彼は京都にはびこる群盗どもを引っ捕らえて、片っぱしから斬り殺してしまった。

もちろん時政は、捕えた犯人は検非違使庁に引き渡すことになっていることを知っていたのであるが、そうすれば強盗どもは、実質上の無罪放免になることもわかっているから、そうしなかったのである。

京都の庶民たちが喜んだことは言うまでもない。

女性的人道主義の限界までいった日本の法律は、一転して峻烈な男性原理に返った。時政のやり方は一つの先例として確立されたからである。
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