電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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偏見は自分にとって不利になるのである。未知のものを探索することがなくなってしまうからだ。自発的になるということは、先入観を捨て、はじめての人や考えに出会い、つき合ってみようとすることである。先入観そのものは、ぼんやりしていてよくわからない領域を避け、成長を妨げるための安全弁のはたらきをする。自分が「抑える」ことのできない人間は誰も信用しないというのは、本当のところは、よく知らない領域で自分自身をも信用していないということである。
◆「気心の知れた人」ばかりと付き合うな!
『自分のための人生』〈原題:Your Erroneous Zone(錯信帯)〉
( ウエイン・W・ダイアー/渡部昇一・訳、三笠書房 (2011/7/21)、p179 )
心の不安定な者は必死で安定を求める。しかし、恐怖を克服しよう
と決心さえすれば、必ず恐怖は克服できるものだ。恐怖は自分の心
の中にしか存在しないからだ。
6章 「自分の知らない世界」に飛び込む勇気
3 「気心の知れた人」ばかりと付き合うな!
自分の自発性を厳しく見つめてみよう。自分は何か新しいことに対して寛容になれるだろうか。それとも習慣として身についた行動をかたくなに守るだろうか。自発性とは、おもしろそうだからというだけの理由から、瞬時の判断で何かを試すことができる能力をいう。
やってみておもしろくないとわかることもあるかもしれないが、その試み自体は、実際楽しかったのだ。無責任だとか軽率だという非難を受けそうだが、他人の判断はどうでもよい。自分自身、未知のものを発見するというすばらしい時間を過ごしているのだから。
要職にあって、自発的になるのはたいへんだと思っている人がたくさんいる。そういう人たちは、柔軟性のない生き方で一生を送り、自分たちが愚かにも盲従しているということには気づいていないのだ。
イエス・マンは自発的な人間ではない。未知のことを極端に恐れているだけである。彼らは他人に合わせ、言われたことをやる。決して挑戦したりせず、自分に期待されたことをかたくなに守り抜くのである。あなたはこの面では自分はどのような位置にいるのか。あなたはこの領域では本当に自分らしい自分でいられるか。あなたは必ずしも確実なものに行き着くとは限らないような道を、みずから進んでたどることができるだろう。
柔軟性のない人間は決して成長しない。いつもどおりの同じやり方でものごとをかたづけようとするのである。現場の教師のための大学院の授業を担当している私の同僚は、30年以上の歳月を教壇に立って過ごしてきた古参の教師たちに、よくこういう質問をする。
「本当に30年間教えてきましたか。それとも1年間教えるのを30回くりかえしてきたのですか」
読者のみなさんは、1万日もしくはそれ以上の日々を本当に生きてきただろうか。それとも、1日生きることを単に1万回あるいはそれ以上くりかえしてきたのだろうか。生きていくうえで、より自発的になろうと努力するとき、ぜひ自問すべき質問である。
柔軟性のなさはあらゆる偏見のもととなる。
偏見( prejudice )とは、つまり先に判定してしまうこと( pre-judge )である。偏見の基盤となっているのは、どちらかと言えば、特定の人物、考え、行動に対する憎しみや嫌悪よりも、気心の知れた人、つまり自分と同類の人間と一緒にいるほうが楽だし安全だという事実なのである。偏見は自分にとっては有利なものに見える。偏見のおかげで未知の、もしかしたら迷惑にもなりかねない人やものや考えは寄せつけずにすむのだ。
しかし実際には、偏見は自分にとって不利になるのである。未知のものを探索することがなくなってしまうからだ。自発的になるということは、先入観を捨て、はじめての人や考えに出会い、つき合ってみようとすることである。先入観そのものは、ぼんやりしていてよくわからない領域を避け、成長を妨げるための安全弁のはたらきをする。
自分が「抑える」ことのできない人間は誰も信用しないというのは、本当のところは、よく知らない領域で自分自身をも信用していないということである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
《自民党議員/党員必見!》『自民党総裁選候補者の人物評を西川京子前九州国際大学学長・元文科副大臣に訊く;水間政憲』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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偏見は自分にとって不利になるのである。未知のものを探索することがなくなってしまうからだ。自発的になるということは、先入観を捨て、はじめての人や考えに出会い、つき合ってみようとすることである。先入観そのものは、ぼんやりしていてよくわからない領域を避け、成長を妨げるための安全弁のはたらきをする。自分が「抑える」ことのできない人間は誰も信用しないというのは、本当のところは、よく知らない領域で自分自身をも信用していないということである。
◆「気心の知れた人」ばかりと付き合うな!
『自分のための人生』〈原題:Your Erroneous Zone(錯信帯)〉
( ウエイン・W・ダイアー/渡部昇一・訳、三笠書房 (2011/7/21)、p179 )
心の不安定な者は必死で安定を求める。しかし、恐怖を克服しよう
と決心さえすれば、必ず恐怖は克服できるものだ。恐怖は自分の心
の中にしか存在しないからだ。
6章 「自分の知らない世界」に飛び込む勇気
3 「気心の知れた人」ばかりと付き合うな!
自分の自発性を厳しく見つめてみよう。自分は何か新しいことに対して寛容になれるだろうか。それとも習慣として身についた行動をかたくなに守るだろうか。自発性とは、おもしろそうだからというだけの理由から、瞬時の判断で何かを試すことができる能力をいう。
やってみておもしろくないとわかることもあるかもしれないが、その試み自体は、実際楽しかったのだ。無責任だとか軽率だという非難を受けそうだが、他人の判断はどうでもよい。自分自身、未知のものを発見するというすばらしい時間を過ごしているのだから。
要職にあって、自発的になるのはたいへんだと思っている人がたくさんいる。そういう人たちは、柔軟性のない生き方で一生を送り、自分たちが愚かにも盲従しているということには気づいていないのだ。
イエス・マンは自発的な人間ではない。未知のことを極端に恐れているだけである。彼らは他人に合わせ、言われたことをやる。決して挑戦したりせず、自分に期待されたことをかたくなに守り抜くのである。あなたはこの面では自分はどのような位置にいるのか。あなたはこの領域では本当に自分らしい自分でいられるか。あなたは必ずしも確実なものに行き着くとは限らないような道を、みずから進んでたどることができるだろう。
柔軟性のない人間は決して成長しない。いつもどおりの同じやり方でものごとをかたづけようとするのである。現場の教師のための大学院の授業を担当している私の同僚は、30年以上の歳月を教壇に立って過ごしてきた古参の教師たちに、よくこういう質問をする。
「本当に30年間教えてきましたか。それとも1年間教えるのを30回くりかえしてきたのですか」
読者のみなさんは、1万日もしくはそれ以上の日々を本当に生きてきただろうか。それとも、1日生きることを単に1万回あるいはそれ以上くりかえしてきたのだろうか。生きていくうえで、より自発的になろうと努力するとき、ぜひ自問すべき質問である。
柔軟性のなさはあらゆる偏見のもととなる。
偏見( prejudice )とは、つまり先に判定してしまうこと( pre-judge )である。偏見の基盤となっているのは、どちらかと言えば、特定の人物、考え、行動に対する憎しみや嫌悪よりも、気心の知れた人、つまり自分と同類の人間と一緒にいるほうが楽だし安全だという事実なのである。偏見は自分にとっては有利なものに見える。偏見のおかげで未知の、もしかしたら迷惑にもなりかねない人やものや考えは寄せつけずにすむのだ。
しかし実際には、偏見は自分にとって不利になるのである。未知のものを探索することがなくなってしまうからだ。自発的になるということは、先入観を捨て、はじめての人や考えに出会い、つき合ってみようとすることである。先入観そのものは、ぼんやりしていてよくわからない領域を避け、成長を妨げるための安全弁のはたらきをする。
自分が「抑える」ことのできない人間は誰も信用しないというのは、本当のところは、よく知らない領域で自分自身をも信用していないということである。