今朝は、弦楽アンサンブルの奏でるなんとも美しくて静かな音楽が降りて来た。
〈降りて来る〉。あらためて文字を眺めると不思議な言い方だが、本当にそれはいつもふうわりと降りて来る。そもそも、思えば小学二年生の頃だったか、たまたま読んでいたベートーヴェンの子ども用伝記のなかに、〈レッスンを繰り返すなかで幼いルートヴィヒは、窓の外の木の葉が風に落ちてゆく様子を見ても、それがすぐさま美しい音楽となって心のなかで流れるようになりました。〉というような一節に出会ったことがきっかけだったかもしれない。自分もそうなってみたいと強烈にたまらなく憧れて願って、美しい音楽を希求しながら自然の事物を眺める習慣ができたような気がする。
今日は、午後からしごとなので、すこしゆっくり。
ラジオから流れてくるフィンランドの作曲家ヘイノ・カスキ(1885生まれ~1957没)のピアノ小品「夜の浜辺にて」と管弦楽小品「前奏曲変ト長調」を聴きながら、ぼんやりといろいろなことを考えた。たとえば、明日大きな彗星が地球にぶつかることになって、それがもはや避けられないことだったとして、それをラジオから知らされたひとたちは、たとえば新型風邪をひいても病院にかかることをせず、美しい浜辺から海を眺めに行くのではないだろうか、とか。そうなると病院はひまでひまで仕方がなくなるので、お医者さんや看護師さんたちも美しい海辺へ海を見に出掛けていくのでないだろうか、などなど。
12年前の11月16日に〈ヨブ記〉と題して日記を書いていたのを、今朝、久しぶりに読み返した。そうか、こういうことを当時思ったのかとおもいながら。今日も、これからしごと。
河野先生の第一歌集『森のやうに獣のやうに』の中に次のような一首があります。
休学と決まりし午後にぽつつりとヨブ記を読めと主治医が言へり 河野裕子
雁書館から出ている古谷智子著『河野裕子の歌』によれば、「『ヨブ記』は聖書の中で、正統主義の『箴言』と批判主義の『伝道の書』を統合する位置にある。ひたすら信じるのでもなく、一方的に批判するのでもない生の混沌が説かれている。すべてを失いながら信仰を捨てることがなかったヨブ、苦悩のなかでおのがじしの生きて行く方向を拓いてゆくヨブに、少女であった河野はどんな思いを抱いたことだろう。(中略)河野が病に倒れたのは、学校の授業中だったという。そして主治医が多くを語らずぽつりとこう言ったのは、その年の夏、河野が高校三年生のある午後のことだった。」とあります。
私が昔から敬愛し愛読している作家のひとり、遠藤周作氏は、その最晩年、病から来る堪え難い痛みにうめきながら、結局は実現されませんでしたが、『深い河』の次に手掛けたい小説は『ヨブ記』のような話だ、と身近なひとたちに語っておられたそうです。
河野先生のこのうたを見るたびにそのことを思い出します。
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「ヨブ記」からすこし脱線しますが、上記の河野先生のうたの結句の「言へり」について、思うことを少々。
河野先生の第三歌集『桜森』の巻頭の一首、
たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり 河野裕子
これは、河野先生の短歌作品を代表するうたとしてしばしば人びとの口吻(こうふん)にのぼる一首で、私にとっても特別に思い入れのある大好きなうたです。ここでも、さきほどのうた同様に、一首を閉じることばとして「言へり」が使われていますが、ここでの「言へり」からは、昔話の語り口風の「(と)言ったそうな。。。」のニュアンスが多分に感じられます。さきほどのうたと比較するとき、明らかにそのちがいが察せられます。しかし、ニュアンスが微妙に違うとはいえ、この「言へり」からは、ある意味「河野節(かわのぶし)」とでも言えるような、河野先生の彫啄されたことばだけが持つ独特な手触り感が、なにか刻印のようにありありと感知されるのも実感としては本当のことです。私は河野先生のうたを読むとき、そういうところにも惹かれます。
昨日も早かったが、今朝も早く出掛けねばならぬ。起きがけに、ついこの間放送録音したジャナンドレア・ノセダ指揮NHK交響楽団の演奏会から、大好きなレスピーギの〈リュートのための古風な舞曲とアリア〉第一組曲を再生して流してこころを洗う。昨今の一部権力者たちによってすっかりきな臭くなって汚れ腐敗してしまった世の中のために自分ができることは何だろうと、やはり考えながら。
夜もすがら列車振動は止むことなし横光『微笑』ひらきつつ青服の東京士官ひとりは
今朝、ふと思い出した小池さんの一首。
わが知らぬわが家の屋根をまざまざとインターネットに凝視してしまふ 小池光(歌集『山鳩集』所収)
Googleアースを詠まれたものだろう。小池さんは有名なプロフィールによれば長いこと学校の数学の先生でいらして〈理系〉的なことに親しんでこられたおひとりと思うが、昨今の現代科学というものの、ひとのところ(あるいは、ひとの心)にずかずかと無神経に踏み込んでくる発達進化現状への違和感、不安感を〈まざまざと凝視してしまふ〉と掬われている作品と思う。
先週の休みから近いが、今日は今週分の休みで身体を休めつつ短歌つくり。今週のあとはひたすら繁忙の予定。
今朝の短歌メモなど。
〈鳥の名〉で呼び交ふ焚き火まはりの群れ 斥候は岩陰にコーヒーすする
族長は王女を〈鳥の名〉で呼びつづける やさしく太きかなしみの声音で
〈復讐〉は果てなききらめき 族長は王女のあたまを撫でつづけたり
薄明にかそと焚き火は消えてゆく バッハのコラール唄ふ人びと
寝台のブラームスの寝醒めの頭(づ)のうちに〈族長〉は語りぬ 王女の身の上のかなしき顛末
〈これはオペラだ〉とブラームスひとりごちぬ フンフンフフンと鼻歌をして
ブラームスのペンは机の上にあり 床には昨夜(よべ)の五線紙の数多(あまた)
森奥の青きポストのある辺りブラームスの傘はひらかれすすむ
出版社の玄関扉(げんかんと)を郵便夫は鳴らす 分厚きブラームスの草稿入り封筒
短歌メモ。
〈鳥の名〉で呼び交ふ焚き火まはりの群れ 斥候は岩陰にコーヒーすする
族長は王女を〈鳥の名〉で呼びつづける やさしく太きかなしみの声音で
〈復讐〉は果てなききらめき 族長は王女のあたまを撫でつづけたり