映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

はじまりへの旅

2017年04月12日 | 洋画(17年)
 『はじまりへの旅』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)主演のヴィゴ・モーテンセンがアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた作品(注1)ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、風の吹く音がしたあとに、針葉樹が鬱蒼と茂る森の風景が俯瞰で映し出されます(注3)。
 次いで森の中が描き出され、流れる川のソバに大きな角を生やした鹿が。
 鹿は木の葉を食べていますが、チョットした音に耳をそばだてると、その場を立ち去ろうとします。その途端に、樹木の間に身を潜めていた青年(長男のボウジョージ・マッケイ)が飛び出して、手にしたナイフで鹿を仕留めます。
 それを見ていた父親(ベンヴィゴ・モーテンセン)や子供たちも姿を表します。皆、顔に泥を塗ったりして偽装をしています。
 父親が、仕留めた鹿を捌いて、その血をボウの鼻に塗り、「これでお前は男だ」と宣言します。

 タイトルが流れ、次いで皆が川で体を洗います。
 父親ベンと長男ボウが、丸太に鹿をくくりつけて運びます。
 ベンが「60分後に訓練だ!」と叫びます。



 さらに、場面は、彼ら(キャッシュ一家)が生活している場所へ。
 ベンは、鉢植えの植物に水をやったりします。家の中には、レコードプレーヤーとかミシンまでも。
 広場では、双子の姉妹のキーラーサマンサ・アイラー)とヴェスパーアナリス・バッソ)が鹿の肉を切り分けています。

 ベンが大きな樹木に架けられている梯子を登って、木の上に設けられている小屋の中に入ると、そこには三女のサージジュリー・クルックス)がいて、ナイフで動物の頭蓋骨を擦っています。部屋の壁には、ホロコーストの死体の写真などグロテスクな写真がたくさん貼ってあります。
 さすがにベンが「Jesus!」と言うと、サージは「Pol Pot」と答えます。

 それから、「訓練」が始まります。ベンが、木の棒を使ってナイフの使い方を教えたり、子供同士で試合したりします。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開されるでしょうか、………?

 本作は、米国北西部の大森林の中で暮らしている父親と男3人・女3人の子供たちを巡るお話。子供たちは学校へ行っていませんが、父親の教育によって皆が高度な知識を身に着け(注4)、さらには自然の中で生き抜ける術も会得しています。そんな彼らに、病院にいる母親が亡くなったとの知らせが届きます。その葬式に出るべく、彼らは自分らが持っているバスに乗り込んで2400km離れた教会に向かいますが、…というストーリー。少々反社会的な言動が気になる面があるとはいえ、ユーモラスなところもあり、まずまずの仕上がりの作品だと思いました。

(2)劇場用パンフレット掲載のエッセイ「“異端の家族”の知的探求を託されたモーテンセンの円熟」において、森直人氏は、本作は『イントゥ・ザ・ワイルド』と「双璧のようにも思えてくる」と述べています。
 ただ、その文章は、「長男ボウの自分探しに焦点を当てると」と限定的に書かれているとは言え、そのように限定しても、また本作全体を見ても、本作は、同作とはまるでベクトルの方向が逆のように思われます。
 さらに、同作の女性版ともいえる『わたしに会うまでの1600キロ』とも、ベクトルの向きが逆でしょう。
 というのも、本作のキャッシュ一家については、それぞれの作品の終点とも見なせる地点(注5)に類似した場所から、それぞれの出発点といえるところ(注6)に類似した場所に向かって旅をする様子が描かれているからです。

 それでは、どうしてキャッシュ一家は、自然の中の自分たちの棲家を出て、2400kmも離れたところにある都会の教会(注7)に行く羽目になったのでしょう?
 それは、ベンの妻であり子供たちの母親であるレスリーが亡くなり、その葬儀が5日後に執り行われると連絡があったところ、放っておくと彼女の遺志がなおざりにされてしまうために(注8)、一家をあげて彼女の遺骸の奪還に向かったというわけです。

 こうしてキャッシュ一家は、“スティーヴ”という愛称のバスに乗って旅行するわけですが、本作では、ベンによって特殊な育て方をされた子供たちの姿が、実にフレッシュに描かれています。



 一例に過ぎませんが、双子の姉妹の一人・キーラー(注9)がナボコフの『ロリータ』を読んでいると、バスを運転しているベンが「何の本だ?」と尋ねるものですから、彼女が本の背をバックミラーを通して見せると、ベンは「そんな本を与えていないが」「それで?」とさらに尋ねます。
 キーラーが「飛ばし読みしている」「面白い(It’s interesting)」と答えると、ベンは「面白い?」と聞き返し、三女のサージが「キーラーが面白いって言ったよ!」と騒ぎ立てます。ベンは「面白いという言葉なんかない」「そんな言葉を使ってはダメだ」と注意し、さらにどんな内容かを尋ねます。
 キーラーが「老人がいて、少女を愛して、彼女は12歳で…」と言い始めると、ベンは、「それはプロットにすぎない」と止めるので、キーラーは「物語は男の視点で書かれている」「年いった男が、少女をレイプする」「彼は憎いけれど、可哀想でもあるし」などと答え、ベンは「良い考察だ」と応じるのです(注10)。

 ですが、ベンは、生成文法で著名な言語学者ノーム・チョムスキーの誕生日のお祝いをするだけでなく(注11)、かなり左翼的に偏向した教育を子供たちに施してもいるようで、それは大いに首を傾げたくなります(注12)。

 こんなキャッシュ一家ですから、あちこちでハプニングがあっただけでなく、ベンの妹のハーパーキャサリン・ハーン)とその夫のデイヴスティ―ブ・ザーン)の家に立ち寄った際にも、騒動が持ち上がります(注13)。
 そして、最大の騒動は、妻の実家の義父のジャックフランク・ランジェラ)などに会った際や教会での葬儀の場などで引き起こされます。
 さらに、その後、この一家がどのように変化するのかも、なかなか興味深いところがあります。
 ですが、それは見てのお楽しみということにして、ここでは省略いたしましょう。

 本作は、様々の観点から議論することができるように思われます(注14)。
 前回の『未来よ こんにちは』についてのエントリでは、高校における教育方法という点を取り上げたこともあり、ここでもベンの子供たちに対する教育方法を見てみると、ある面でとても素晴らしいやり方をしているなと思えます。
 一方で、大自然の中で、人が生き抜いていくための技法を一人一人身につけさせるということは、先進国の教育の中で最も欠けている点ではないでしょうか?
 他方で、一人一人に同年齢の子供に比べて遥かに高度な知識と教養を身に着けさせるという面でも、驚いてしまいます。
 これは、父親が子供に対する教育を他人任せにしないで自分で行った例としてよくあげられるジョン・スチュアート・ミルを彷彿とさせます。
 そして、ミルの場合には、後者に偏重しすぎていて前者が欠けていたように思えますから、本作で見られるベンのやり方には、その意味でも目を見張ります。

 ただ、ミルの場合、父親が「ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとした」のと同じように(注15)、本作の場合も、ベンは子供たちに、自分の随分と左翼的な思想傾向を教え込もうとしているようです。
 ですが、金太郎飴的な人間を作り出すことにどんな意味があるのでしょう(注16)?
 それに、こうした教育方法の一番の問題は、世の中には自分とは考え方も価値観も行動形態も全く違った人がたくさんいるのだ、ということがわからなくなってしまうという点ではないでしょうか?
 人間社会という人間の森の中に放たれることになるキャッシュ一家の子供たちは、大自然の場合と同じように、自分で独立してそこで生き抜くことができる技法を身につけているのでしょうか(注17)?

(3)渡まち子氏は、「育児や教育の本質を改めて考えさせられるが、そんな難しいテーマを、ユーモアとペーソスをもって描いた語り口がとてもいい。作り手の優しいまなざしを感じるこの作品を、好きにならずにはいられない」として75点を付けています。
 真魚八重子氏は、「「はじまりへの旅」はそれ(「モスキート・コースト」(86年)という映画)をまろやかな物語にし、コミューンの実態にファンタジーを交え、微笑ましく見られる毒気の薄い作品にした印象を持った」と述べています
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「ドラマの軸は父子の相克。過激な文明批判の割にまっとうなオチで、どうせなら最後までアナーキーにと思わぬでもないが、毒と甘みがほどよく交じった痛快作」と述べています。



(注1)本作は、第69回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門の監督賞を受賞(審査員賞は邦画の『淵に立つ』)。

(注2)監督・脚本はマット・ロス
 原題は「Captain Fantastic」。
 (母親の葬儀に向けてバスに乗り込んで出発する時に、父親のベンは子供たちに向かって、「this is your captain speaking」と言っています)

 なお、出演者の内、最近では、ヴィゴ・モーテンセンは『偽りの人生』、フランク・ランジェラは『グレース・オブ・モナコ』で、それぞれ見ました。

(注3)当初の舞台は、ワシントン州カスケード山脈のスカイコミッシュ川周辺とされています。
 もしかしたらここらあたりは、『わたしに会うまでの1600キロ』において、主人公のシェリルリース・ウィザースプーン)が到達した「神の橋」に近いのかもしれません(シェリルは、「PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)」のうち、カリフォルニア州のシェラ・ネバダ山脈の途中から入って、ワシントン州のカスケード山脈の途中で歩くのを終えました←この記事をご覧ください)。

(注4)ある日の読書の様子が映し出されますが、次男のレリアンニコラス・ハミルトン)は『カラマーゾフの兄弟』、キーラーは『銃・病原菌・鉄』(翻訳本はこれ)、ヴェスパーは『宇宙を織りなすもの』(翻訳本はこれ)、サージはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』(翻訳本はこれ)を、それぞれ読んでいます。
 ベンは、サージに「何ページだ?」と尋ねると、サージは「398ページ」と答え、ヴェスパーに「量子のもつれとか、プランク時間やプランク長は理解できたかな?」と訊くと、彼女が「できたわ」と答えたので、ベンは「それでは、明日発表しろ」と命じます。

(注5)『イントゥ・ザ・ワイルド』にあっては、アラスカの森に放置されていたバスの中、『わたしに会うまでの1600キロ』にあっては、上記「注3」で触れた「神の橋」。

(注6)『イントゥ・ザ・ワイルド』でも『わたしに会うまでの1600キロ』でも、それぞれの主人公が暮らしていた都市とか街(前者のクリスについては、ジョージア州ディスカーブ郡に設置されているエモリー大学、後者のシェルリについては、具体的に特定できませんが、夫のボールと離婚する原因となるヘロインを簡単に入手できるのは大きな都市でしょう)。

(注7)ニュー・メキシコ州のラスクルーセスにあるとされています。

(注8)ベンのもとに残されていた妻の遺言状には、「自分は仏教徒だから、死んだら火葬にして、遺灰は公共トイレに流してほしい」と書かれていたにもかかわらず、妻の実家の方では、伝統に従って教会で葬儀を行い、遺骸は土葬にするとして譲りませんでした。
 元々、妻の実家とベンは折り合いが悪かったのですが、義父のジャックからは、「葬式に現れたら警察を呼ぶ」とまで言われてしまいます。

(注9)劇場用パンフレットの「Keyword」の「Lolita(ロリータ)」の項を見ると「ヴェスパー」となっていますが、この映像からしても「キーラー」ではないかと思います。

(注10)ところが、キーラーの話を耳にした幼い三男のナイチャーリー・ショットウェル)が、「レイプって?」と尋ねてきます。それに対し、ベンが「通常は、男が女に性交を強いること」と答えると、ナイは「性交って?」などと次々に聞いてくるので、ベンは一つ一つ丁寧に包み隠さずに答えます。
 今の性教育の進展振りからしたら、当然の内容なのかもしれません。ですが、例え子供であっても真実を教えるべきだというベンの教育方針があるとしても、相手の年齢に対応した教育内容というものがやっぱりあるような気もしますが。

(注11)12月7日。ベンは、お祝いのプレゼントとして子供たちにナイフを贈ります。
 ただ、後になると、次男のレリアンが、「僕は、他の人と同じように、クリスマスを祝いたい」と言うようになります。

(注12)例えば、バスに乗って外出した際、ガソリンスタンドにある店の外に女の子がいたので、ベンは長男のボウに、「話してきてもいいぞ」、「彼女に聞いてみろ、搾取階級に対して労働者階級が武装革命を起こすことについてどう思うのかと」「だけど、マルクス主義者は、資本家と同じように大量虐殺をするから、マルクス主義者は避けろ」、「弁証法的唯物論者なのかどうか、階級闘争の優位性を認めるかどうか、聞いてみろ」などと言い、さらに「トロッキストかどうか聞いてみろ」と言うと、ボウは「僕はもうトロッキストじゃない。僕は毛沢東主義者だ」と答えるのです。これに対し、ベンは「そうだ(right)」と応じます。
 ですが、毛沢東は、大粛清を行ったマルクス主義者のスターリンと違っているのでしょうか?

(注13)例えば、上記「注10」で触れたベンの教育方針が、妹の家で夕食を取っている際にも発揮されます。
 妹夫婦の子供が、ベンの妻の死因を尋ねた時、夫のデイヴは「病気が重くなって」と曖昧に答えるのですが、ベンは、セロトニン不足による双極性障害によって手首を切って自殺したと、あっけらかんと説明し、妹のハーパーはいたたまれなくなって席を外します。



 こうした対応も、一般的には無作法なこととされるでしょう(日本だったら、ベンは場の空気を読んで対応しないダメな大人だ、と言われるでしょう)。
 あとでハーパーは、「我々は、子供たちに理解できないことから子供たちを守っている」とベンを諭しますが、ベンは「子供たちに嘘は吐けないが、すまなかった」と謝ります。

(注14)例えば、親離れ・子離れの問題はどうでしょう?

(注15)ジョン・スチュアート・ミルに関するWikipediaの記述(その「幼年時代」)から。

(注16)亡くなったレスリーが愛好していたというグレン・グールドが演奏するバッハの『ゴールドベルグ変奏曲』が、バスの中に流れるのは当然であり、さらには、ボウが途中で出会った若い女・クレアエリン・モリアーティ)に、好きな音楽として同曲をあげるのはご愛嬌だとしても、ベンの偏った思想傾向に現代的な意味があるようには思えませんから、前記「注12」のようなことはどうなのでしょう?

(注17)その意味で、途中経過はともかく、ラストで描き出されるキャッシュ一家の状況は、まずまず納得できるものがあるように思いました。でも、ここに到達するために、キャッシュ一家の子供たちは様々なことをすでに身につけているのであり、決してここから物事が始まるわけではないように思います(その意味で、邦題の『はじまりへの旅』は納得出来ないところです)。



★★★☆☆☆



象のロケット:はじまりへの旅


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ふじき78)
2017-06-25 23:46:30
> 人間社会という人間の森の中に放たれることになるキャッシュ一家の子供たちは、大自然の場合と同じように、自分で独立してそこで生き抜くことができる技法を身につけているのでしょうか?

大人の儀式を終えた長男のみが、多くの物を見る為に旅立って行ったのが象徴的でした。残った子供たちはスクール・バスに乗り込む事から通常教育も受けるのでまずまず安心です。
返信する
Unknown (クマネズミ)
2017-06-26 06:08:56
「ふじき78」さん、TB&コメントを有難うございます。
おっしゃるように、ラストのシーンを見ると、「残った子供たちはスクール・バスに乗り込む事から通常教育も受ける」ようなので、なんとかなるでしょう。でも、父親が自分の教育法にあのまま固執していたら、彼らは果たしてどうなったことかと思ってしまいます。
返信する

コメントを投稿