『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を渋谷ユーロスペースで見ました。
(1)これまでその作品を色々見てきた石井裕也監督が制作しているというので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、タイトルが流れた後、ビルの夜景。次いで、早朝の皇居周辺のジョギング風景。道路の信号とか行き交う自動車とかが映し出されて、最後に、とあるバス停。
バスを待っている人たちがみな黙々とスマホを操作しています。
空には飛行船が浮かんでいます。
次は、主人公の看護師・美香(石橋静河)が勤務する病院。
美香が、「失礼します」と言って病室に入り、ベッドを片付けたりカーテンを引いたりしていると、別のベッドにいた患者が、「まだ37だって。小さい子を残して可哀想に」と声をかけます。
美香は死者の顔に白い布をかけ、遺体が病室から運び出されます。
付き添っていた遺族の男が「どうもお世話になりました」と頭を下げます。
手を合わせ、遺体が運び出されるのを見守っていた美香は、「大丈夫、すぐに忘れるから」と呟きます。
夕方、美香は、駐輪所に置いてあった自転車に乗って帰宅します。
看護師寮の自分の部屋で、美香は、爪にマニキュアを塗りながら、「どうもお世話になりました」と口ずさみます。
夜、美香は、自転車に乗って渋谷に向かいます。
「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ 塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない」(注2)との美香の声。
自転車は坂を降りていき、とある場所で停まり、美香は鍵をかけてビルの中に入っていきます。「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(注2)との美香の声。
場面はガールズバーの中。
バイトでバーテンダーをしている美香は、水割りを作ります。
「君がかわいそうだと思っている君自身を 誰も愛さない間 君はきっと世界を嫌いでいい そしてだからこそ この星に 恋愛なんてものはない」(注2)との美香の声。
美香は、酒を出します。
客の男が「君は踊らないの?」と尋ねると、美香は「いや、…」と笑って誤魔化します。
控室では、店の女たちがたむろしていますが、美香は壁に寄りかかって息を吐いています。
次の場面はビルの建設工事現場。
そこでは、慎二(池松壮亮)が、仲間の智之(松田龍平)、岩下(田中哲司)、フィリピン人のアンドレス(ポール・マグサリン)らと一緒に、日雇い労働者として資材の運搬をしています。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語は、これからどのように展開していくのでしょうか、………?
本作は、現代詩人の最果タヒの詩集をドラマ化したもの。といっても、ところどころにその詩集の言葉が引用されているだけで、全体は若い男女のラブストーリーとなっていて、決して映画が難解というわけではありません。むしろ、出演するのが、今が旬の池谷壮亮とか松田龍平、それに『PARKS パークス』に出演した石橋静河といった錚々たる若手・中堅俳優であり、社会問題をいくつも取り上げすぎているきらいがあるとはいえ、現代の若者の姿がうまく捉えられているように思えました。
(2)本作を制作した石井裕也監督の作品については、初期の頃の無類の面白さが、商業映画に進出するようになってから低減傾向にあるかなと密かに思っていたところ(注3)、前作の『バンクーバーの朝日』が底で、本作でかなり持ち直したかな、という感じです。
本作では、現代詩を原作とするところが大層斬新ですし(注4)、飛行船が空を遊弋したり(注5)、アニメーションのシーン(注6)が突如飛び出すなど、フンタジックな面も色々取り入れられています。
単なる素人の見解に過ぎませんが、石井監督にあっては、従来の日本の商業映画の路線にズボッと浸かりこんでしまわずに、いろいろ実験的な手法を試みてもらって、邦画の殻を打ち破って貰いたいものです。
さて、本作の現代詩ですが、大体のところ、現代社会を浮き彫りにするための材料の一つとなっていて、映画の中にまで深く入り込んではいないのではないかという感じもしてしまいます(注7)。
それは、本作で取り上げられている様々の社会問題についても言えそうです。
例えば、慎二の隣人に住む老人(大西力)の問題。
その老人から、慎二は文庫本を借りたりして付き合いはあるものの、ある時、同じアパートに住む主婦らが集まって、「隣の部屋からなんか腐った臭がする」と話しているのを耳にした慎二が、部屋の中に飛び込むと、その老人が熱中症で、本の上に突っ伏したまま亡くなっているのを発見するのです。
ここでは、一人住まいの老人の熱中症に依る孤独死という(注8)、近年よく問題視される事件が取り上げられています。
でも、部屋に踏み込んだ慎二は、「やっぱり」と呟くだけで、この問題に対しあくまでも傍観者然としています。
また、「携帯9,700円、ガス代3,261円、電気2,386円、家賃65,000円、シリア、テロリズム、食費25,000円、ガールズバー18,000円、震災、トモユキが死んだ、イラクで56人死んだ、薬害エイズ訴訟、制汗スプレー 750円、安保法案、少子高齢化…、会いたい」という文字が空中に浮かぶところ、ここには、慎二たちの経済問題もさることながら(注9)、政治的・社会的問題までも列挙されています。
でも、これらについても、慎二は眺めるだけであり、何か行動に移そうとするわけではありません。
本作では、社会問題が色々取り上げられているとはいえ、総じて、現代の風俗といった感じで描かれているように見えます。
しかしながら、本作においては、美香は最果タヒの詩に導かれて(注11)、慎二は片目で見える世界(注10)を一生懸命見ようとして、2人で手を取り合いながら、東京という街をアチコチ歩き回っているように思えます。まるで、空に浮かぶ飛行船から地上を見るように(注12)。
要するに、本作では、経済問題とか社会問題とかそれ自体を描き出すことが主眼ではないようです。むしろ、それらのものから、さらには最果タヒの詩から立ち上る現代の東京が持っている臭いを身にまといながら生きている美香と慎二のラブストーリーが描き出されているというべきかもしれません。
そのラブストーリーですが、この広い東京で何度も慎二と美香とが出会ったりするものの(注13)、恋人になった智之の突然死(注14)を美香が引きずっていたりして、なかなかしっくり行きません。なにしろ、慎二が「俺にできることがあれば、何でも言ってよ」と言うと、美香が「死ねばいいのに」と言うくらいなのです(注15)。
でも、次第にほぐれてきて、ついには、美香が「私って、ほんと信じられないくらいダメな人間だよ」と言うと、慎二が「そうか、俺と一緒だ」と応じるまでになるのです。
こうして、ドラマティックなラブストーリーとは程遠い2人の関係が綴られ、さらには石井裕也監督のお得意の“ダメ人間”まで飛び出すとはいえ、それだからこそ、今の東京ならばもしかしたらあり得るかもしれないと見ている者に思わせ、ラストの方の美香の「朝起きたらお早うって言おう。御飯食べると前はいただきますって言おう」「そういうことだよね」との言葉も、十分説得力があるようにクマネズミには思えました。
なお、主演の石橋静河は、『PARKS パークス』では物静かな役柄で、余り目立ちませんでしたが、本作では、なかなか意志が強いながらも次第に心がほぐれていくという難しい役柄を、力いっぱい演じていて、今後が期待されます。
また、共演の池松壮亮は、片目が見えず、また喋りだしたら止まらない癖があるという役柄を、いつものようにとても安定した演技でこなしています。
(3)渡まち子氏は、「安定した上手さをみせる若き演技派の池松壮亮と、石橋凌と原田美枝子の次女で、演技経験がほとんどない石橋静可という不思議な組み合わせが、孤独な男女のぎこちなさにフィットしていた」として60点を付けています。
山根貞男氏は、「描かれる恋愛も、描く映画も、不思議なリアルさに満ちているのである。それが作品の流れを魅力的なものにし、東京の今を新鮮な姿で浮かび上がらせる」と述べています。
佐藤久理子氏は、「もはや都会に生きることの鬱屈というのは、世界のどこでも基本的にはあまり変わらないのではないか、ということを感じさせる点で、本作は近視眼的な日本映画とは隔たる視野の広さをそなえている」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『バンクーバーの朝日』などの石井裕也。
原作は、最果タヒ氏の詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトル・モア)。
出演者の内、最近では、石橋静河は『PARKS パークス』、池松壮亮は『だれかの木琴』、松田龍平は『ぼくのおじさん』、田中哲司は『悪夢ちゃん The 夢ovie』、幼い時分の美香の母親役の市川実日子は『シン・ゴジラ』、三浦貴大は『追憶』、野嵜好美は『ロマンス』で、それぞれ見ました。
(注2)最果タヒの「青色の詩」より。
「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない。夜空はいつでも最高密度の青色だ。君がかわいそうだと思っている君自身を、 誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい。そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない」(2015年12月27日のツイッターで投稿された詩)。
(注3)とはいえ、商業映画デビュー作の『川の底からこんにちは』(2009年)は、素晴らしい出来栄えなのですが。
(注4)上記「注2」で触れている詩の他にも、例えば、「彫刻刀の詩」も引用されます。
「きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。みんながそれで、安心してしまう。水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。会わなくても、どこかで、息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。お元気ですか、生きていますか。きみの孤独を、かたどるやさしさ」(2014年10月20日のツイッターで投稿された詩。なお、最後の「きみの孤独を、かたどるやさしさ」は、使われていなかったようですが)。
(注5)『ガール・スパークス』(2007年)における空を飛ぶロケットを思い出させます(尤も、そのロケットは、本作の飛行船のように悠然と飛んではおりませんでしたが)。
(注6)美香と慎二がバス停でバスを待っている時に、空に飛行船を見て、慎二が「何か途轍もなく良いことが起こるかもしれない」と言うシーンの後、野良犬が車で運ばれ、子犬にガスがかけられ、燃やされ、煙突から煙が出て、灰が東京のアチコチに降りかかるというシーンが、アニメーションで描かれます。
なお、上記「注5」で触れたロケットのシーンとか、『ハラがコレなんで』(2011年)の空に浮かぶ雲の様子などはアニメーション的な感じもします。
(注7)最果タヒの詩は、美香のモノローグの形で挿入されるに過ぎませんから。
(注8)後で慎二は、「死んでから2日も経つのに、内臓の温度が40度もあった」等と仕事仲間の岩下に話します。
(注9)その前に、慎二は、「ガールズバーで1時間7,000円も取られたら、俺たちの1日分の給料はほとんどなくなっちゃう。ガス代は…」などと智之に話し、「うるさいな」と言われてしまいます。
(注10)慎二は左目が殆ど見えないという設定になっていて、画面が2つに分割されて(スプリット・スクリーン)、左側が黒くなってしまう時もあります。
ただ、美香は「世界が半分しか見えないんだ」と言いますが、片目が見えないからといって、無論、実際に、世界の半分が切り取られて見えるわけではないでしょう。視野はやや狭くなりはしても、頭を巡らせば、世界全体は見えるはずです(美香が「半分でも見えていれば上出来。普通、半分も見えていないんだから」という場合の“半分”というのには、いうまでもなく、比喩的な意味合いが込められているでしょう)。
とはいえ、両目で見る場合と比べて、奥行きが不確かなものとなってしまうでしょう(遠近感が掴みづらいため)。
慎二が社会問題などを見る目も、そんなところから、奥まで見ることは出来ずに表面を撫でるだけになっているのかもしれませんが。
(注11)上記「注7」では、最果タヒの詩がモノローグのため、本作の背景の一つになっているのでは、というようなことを書きましたが、実際には、上記「注2」で触れている「青色の詩」は、本作の背骨のようなものではないかと思います。
特に、「君がかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい」の部分は、最後の方まで見かを引っ張っていきます(ラストの方で、美香は慎二に、「人を好きになるって、その人のことを殺すってことだよね」などと言うのです)。
(注12)飛行船を動かす動力は、路上で女(Ryoko:野嵜好美)が何度も歌う「Tokyo Sky」(「頑張れAh」が繰り返されます)という歌でしょうか?
(注13)最初、居酒屋で、美香と慎二は、別々のグループながら、目と目が合います。それから、ガールズバーに智之や岩下と連れ立って行った時に、慎二はバーテンダーの美香と遭遇します。そして、夜、渋谷の繁華街をフラフラ歩いている時に、慎二は、自転車の美香と会います。
(注14)智之は、工事現場での仕事中に、若年性脳梗塞で倒れ、そのまま亡くなってしまいます。後で、美香が慎二に、「首元に傷がある人は、若くても脳梗塞を起こすことがあるみたい」「それだけで人が死ぬってすごくない?」などと言います。
なお、美香は、智之の前にも、牧田という会社員の男(三浦貴大)と関係を持っていたようです。
(注15)その後、デートするようになって、慎二が「死ぬっていう言葉を使うな」と言っても、美香は、野良犬が捕まえられて保健所で殺される話をしたりします。
★★★★☆☆
(1)これまでその作品を色々見てきた石井裕也監督が制作しているというので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、タイトルが流れた後、ビルの夜景。次いで、早朝の皇居周辺のジョギング風景。道路の信号とか行き交う自動車とかが映し出されて、最後に、とあるバス停。
バスを待っている人たちがみな黙々とスマホを操作しています。
空には飛行船が浮かんでいます。
次は、主人公の看護師・美香(石橋静河)が勤務する病院。
美香が、「失礼します」と言って病室に入り、ベッドを片付けたりカーテンを引いたりしていると、別のベッドにいた患者が、「まだ37だって。小さい子を残して可哀想に」と声をかけます。
美香は死者の顔に白い布をかけ、遺体が病室から運び出されます。
付き添っていた遺族の男が「どうもお世話になりました」と頭を下げます。
手を合わせ、遺体が運び出されるのを見守っていた美香は、「大丈夫、すぐに忘れるから」と呟きます。
夕方、美香は、駐輪所に置いてあった自転車に乗って帰宅します。
看護師寮の自分の部屋で、美香は、爪にマニキュアを塗りながら、「どうもお世話になりました」と口ずさみます。
夜、美香は、自転車に乗って渋谷に向かいます。
「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ 塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない」(注2)との美香の声。
自転車は坂を降りていき、とある場所で停まり、美香は鍵をかけてビルの中に入っていきます。「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(注2)との美香の声。
場面はガールズバーの中。
バイトでバーテンダーをしている美香は、水割りを作ります。
「君がかわいそうだと思っている君自身を 誰も愛さない間 君はきっと世界を嫌いでいい そしてだからこそ この星に 恋愛なんてものはない」(注2)との美香の声。
美香は、酒を出します。
客の男が「君は踊らないの?」と尋ねると、美香は「いや、…」と笑って誤魔化します。
控室では、店の女たちがたむろしていますが、美香は壁に寄りかかって息を吐いています。
次の場面はビルの建設工事現場。
そこでは、慎二(池松壮亮)が、仲間の智之(松田龍平)、岩下(田中哲司)、フィリピン人のアンドレス(ポール・マグサリン)らと一緒に、日雇い労働者として資材の運搬をしています。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語は、これからどのように展開していくのでしょうか、………?
本作は、現代詩人の最果タヒの詩集をドラマ化したもの。といっても、ところどころにその詩集の言葉が引用されているだけで、全体は若い男女のラブストーリーとなっていて、決して映画が難解というわけではありません。むしろ、出演するのが、今が旬の池谷壮亮とか松田龍平、それに『PARKS パークス』に出演した石橋静河といった錚々たる若手・中堅俳優であり、社会問題をいくつも取り上げすぎているきらいがあるとはいえ、現代の若者の姿がうまく捉えられているように思えました。
(2)本作を制作した石井裕也監督の作品については、初期の頃の無類の面白さが、商業映画に進出するようになってから低減傾向にあるかなと密かに思っていたところ(注3)、前作の『バンクーバーの朝日』が底で、本作でかなり持ち直したかな、という感じです。
本作では、現代詩を原作とするところが大層斬新ですし(注4)、飛行船が空を遊弋したり(注5)、アニメーションのシーン(注6)が突如飛び出すなど、フンタジックな面も色々取り入れられています。
単なる素人の見解に過ぎませんが、石井監督にあっては、従来の日本の商業映画の路線にズボッと浸かりこんでしまわずに、いろいろ実験的な手法を試みてもらって、邦画の殻を打ち破って貰いたいものです。
さて、本作の現代詩ですが、大体のところ、現代社会を浮き彫りにするための材料の一つとなっていて、映画の中にまで深く入り込んではいないのではないかという感じもしてしまいます(注7)。
それは、本作で取り上げられている様々の社会問題についても言えそうです。
例えば、慎二の隣人に住む老人(大西力)の問題。
その老人から、慎二は文庫本を借りたりして付き合いはあるものの、ある時、同じアパートに住む主婦らが集まって、「隣の部屋からなんか腐った臭がする」と話しているのを耳にした慎二が、部屋の中に飛び込むと、その老人が熱中症で、本の上に突っ伏したまま亡くなっているのを発見するのです。
ここでは、一人住まいの老人の熱中症に依る孤独死という(注8)、近年よく問題視される事件が取り上げられています。
でも、部屋に踏み込んだ慎二は、「やっぱり」と呟くだけで、この問題に対しあくまでも傍観者然としています。
また、「携帯9,700円、ガス代3,261円、電気2,386円、家賃65,000円、シリア、テロリズム、食費25,000円、ガールズバー18,000円、震災、トモユキが死んだ、イラクで56人死んだ、薬害エイズ訴訟、制汗スプレー 750円、安保法案、少子高齢化…、会いたい」という文字が空中に浮かぶところ、ここには、慎二たちの経済問題もさることながら(注9)、政治的・社会的問題までも列挙されています。
でも、これらについても、慎二は眺めるだけであり、何か行動に移そうとするわけではありません。
本作では、社会問題が色々取り上げられているとはいえ、総じて、現代の風俗といった感じで描かれているように見えます。
しかしながら、本作においては、美香は最果タヒの詩に導かれて(注11)、慎二は片目で見える世界(注10)を一生懸命見ようとして、2人で手を取り合いながら、東京という街をアチコチ歩き回っているように思えます。まるで、空に浮かぶ飛行船から地上を見るように(注12)。
要するに、本作では、経済問題とか社会問題とかそれ自体を描き出すことが主眼ではないようです。むしろ、それらのものから、さらには最果タヒの詩から立ち上る現代の東京が持っている臭いを身にまといながら生きている美香と慎二のラブストーリーが描き出されているというべきかもしれません。
そのラブストーリーですが、この広い東京で何度も慎二と美香とが出会ったりするものの(注13)、恋人になった智之の突然死(注14)を美香が引きずっていたりして、なかなかしっくり行きません。なにしろ、慎二が「俺にできることがあれば、何でも言ってよ」と言うと、美香が「死ねばいいのに」と言うくらいなのです(注15)。
でも、次第にほぐれてきて、ついには、美香が「私って、ほんと信じられないくらいダメな人間だよ」と言うと、慎二が「そうか、俺と一緒だ」と応じるまでになるのです。
こうして、ドラマティックなラブストーリーとは程遠い2人の関係が綴られ、さらには石井裕也監督のお得意の“ダメ人間”まで飛び出すとはいえ、それだからこそ、今の東京ならばもしかしたらあり得るかもしれないと見ている者に思わせ、ラストの方の美香の「朝起きたらお早うって言おう。御飯食べると前はいただきますって言おう」「そういうことだよね」との言葉も、十分説得力があるようにクマネズミには思えました。
なお、主演の石橋静河は、『PARKS パークス』では物静かな役柄で、余り目立ちませんでしたが、本作では、なかなか意志が強いながらも次第に心がほぐれていくという難しい役柄を、力いっぱい演じていて、今後が期待されます。
また、共演の池松壮亮は、片目が見えず、また喋りだしたら止まらない癖があるという役柄を、いつものようにとても安定した演技でこなしています。
(3)渡まち子氏は、「安定した上手さをみせる若き演技派の池松壮亮と、石橋凌と原田美枝子の次女で、演技経験がほとんどない石橋静可という不思議な組み合わせが、孤独な男女のぎこちなさにフィットしていた」として60点を付けています。
山根貞男氏は、「描かれる恋愛も、描く映画も、不思議なリアルさに満ちているのである。それが作品の流れを魅力的なものにし、東京の今を新鮮な姿で浮かび上がらせる」と述べています。
佐藤久理子氏は、「もはや都会に生きることの鬱屈というのは、世界のどこでも基本的にはあまり変わらないのではないか、ということを感じさせる点で、本作は近視眼的な日本映画とは隔たる視野の広さをそなえている」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『バンクーバーの朝日』などの石井裕也。
原作は、最果タヒ氏の詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトル・モア)。
出演者の内、最近では、石橋静河は『PARKS パークス』、池松壮亮は『だれかの木琴』、松田龍平は『ぼくのおじさん』、田中哲司は『悪夢ちゃん The 夢ovie』、幼い時分の美香の母親役の市川実日子は『シン・ゴジラ』、三浦貴大は『追憶』、野嵜好美は『ロマンス』で、それぞれ見ました。
(注2)最果タヒの「青色の詩」より。
「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない。夜空はいつでも最高密度の青色だ。君がかわいそうだと思っている君自身を、 誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい。そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない」(2015年12月27日のツイッターで投稿された詩)。
(注3)とはいえ、商業映画デビュー作の『川の底からこんにちは』(2009年)は、素晴らしい出来栄えなのですが。
(注4)上記「注2」で触れている詩の他にも、例えば、「彫刻刀の詩」も引用されます。
「きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。みんながそれで、安心してしまう。水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。会わなくても、どこかで、息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。お元気ですか、生きていますか。きみの孤独を、かたどるやさしさ」(2014年10月20日のツイッターで投稿された詩。なお、最後の「きみの孤独を、かたどるやさしさ」は、使われていなかったようですが)。
(注5)『ガール・スパークス』(2007年)における空を飛ぶロケットを思い出させます(尤も、そのロケットは、本作の飛行船のように悠然と飛んではおりませんでしたが)。
(注6)美香と慎二がバス停でバスを待っている時に、空に飛行船を見て、慎二が「何か途轍もなく良いことが起こるかもしれない」と言うシーンの後、野良犬が車で運ばれ、子犬にガスがかけられ、燃やされ、煙突から煙が出て、灰が東京のアチコチに降りかかるというシーンが、アニメーションで描かれます。
なお、上記「注5」で触れたロケットのシーンとか、『ハラがコレなんで』(2011年)の空に浮かぶ雲の様子などはアニメーション的な感じもします。
(注7)最果タヒの詩は、美香のモノローグの形で挿入されるに過ぎませんから。
(注8)後で慎二は、「死んでから2日も経つのに、内臓の温度が40度もあった」等と仕事仲間の岩下に話します。
(注9)その前に、慎二は、「ガールズバーで1時間7,000円も取られたら、俺たちの1日分の給料はほとんどなくなっちゃう。ガス代は…」などと智之に話し、「うるさいな」と言われてしまいます。
(注10)慎二は左目が殆ど見えないという設定になっていて、画面が2つに分割されて(スプリット・スクリーン)、左側が黒くなってしまう時もあります。
ただ、美香は「世界が半分しか見えないんだ」と言いますが、片目が見えないからといって、無論、実際に、世界の半分が切り取られて見えるわけではないでしょう。視野はやや狭くなりはしても、頭を巡らせば、世界全体は見えるはずです(美香が「半分でも見えていれば上出来。普通、半分も見えていないんだから」という場合の“半分”というのには、いうまでもなく、比喩的な意味合いが込められているでしょう)。
とはいえ、両目で見る場合と比べて、奥行きが不確かなものとなってしまうでしょう(遠近感が掴みづらいため)。
慎二が社会問題などを見る目も、そんなところから、奥まで見ることは出来ずに表面を撫でるだけになっているのかもしれませんが。
(注11)上記「注7」では、最果タヒの詩がモノローグのため、本作の背景の一つになっているのでは、というようなことを書きましたが、実際には、上記「注2」で触れている「青色の詩」は、本作の背骨のようなものではないかと思います。
特に、「君がかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい」の部分は、最後の方まで見かを引っ張っていきます(ラストの方で、美香は慎二に、「人を好きになるって、その人のことを殺すってことだよね」などと言うのです)。
(注12)飛行船を動かす動力は、路上で女(Ryoko:野嵜好美)が何度も歌う「Tokyo Sky」(「頑張れAh」が繰り返されます)という歌でしょうか?
(注13)最初、居酒屋で、美香と慎二は、別々のグループながら、目と目が合います。それから、ガールズバーに智之や岩下と連れ立って行った時に、慎二はバーテンダーの美香と遭遇します。そして、夜、渋谷の繁華街をフラフラ歩いている時に、慎二は、自転車の美香と会います。
(注14)智之は、工事現場での仕事中に、若年性脳梗塞で倒れ、そのまま亡くなってしまいます。後で、美香が慎二に、「首元に傷がある人は、若くても脳梗塞を起こすことがあるみたい」「それだけで人が死ぬってすごくない?」などと言います。
なお、美香は、智之の前にも、牧田という会社員の男(三浦貴大)と関係を持っていたようです。
(注15)その後、デートするようになって、慎二が「死ぬっていう言葉を使うな」と言っても、美香は、野良犬が捕まえられて保健所で殺される話をしたりします。
★★★★☆☆