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カフェ・ソサエティ

2017年05月26日 | 洋画(17年)
 『カフェ・ソサエティ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)ウディ・アレン監督の最新作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、プール付きの豪邸におけるパーティ-の模様が映し出されます。
 場所はハリウッド・ヒルズにあるフィル・スターンスティーヴ・カレル)の邸宅、時代は1930年代後半。
 フィルは大物エージェント。人々が彼の周りに集まっています。
 そこに、ニューヨークで暮らすフィルの姉・ローズジーニー・バーリン)から電話がかかってきます。
 「ローズよ」「誰?」「あんたの姉よ」「ここの電話番号を知らないはずだが?」「メイドに聞いた」「要件は?」「ボビーがハリウッドに行く。仕事を見つけてやって」「ボビー?」「ボビーは私の息子。あんたの甥。あんたしか頼れないの」「力になれるとは思わないが」といった会話がローズとフィルとの間で交わされます。

 ボビージェシー・アイゼンバーグ)の家族について説明が入ります。
 “父・マーティケン・ストット)は貧弱な宝石商を営む。父と母・ローズはよく喧嘩をした。特に、フィルのことについて。
 姉のエヴェリンサリ・レニック)は、教師のレナードスティーブン・クンケン)と結婚していたが、レナードは共産主義者。
 兄のベンコリー・ストール)は、レストランに勤めていることになっていたものの、ギャングであり裏稼業で稼いでいた。”

 次の場面では、予め約束した日に、ボビーは、叔父のフィルの事務所に行き、秘書(ヴォニークリステン・スチュワート)に取り次いでくれるよう依頼すると、「会議中なのでお待ちを」と言われてしまいます。
 戻ってきた秘書が、「金曜日にまた来られますか」と尋ねるので、ボビーは「今から3日後ですね」と念を押して、その場を立ち去ります。そして、3日後にボビーが出向くと、ヴォニーは「ごめんなさい、フィルはアカプルコに行っています」と言うのです。

 業を煮やしたボビーは、母親・ローズに電話して「3週間たっても会えない」と嘆くと、兄のベンが「面白い街だぞ。電話番号を教えてやるから、女を紹介してもらえ。20ドルだ」と言います。ボビーは、「お金を出して寝ても、楽しくない」と応じます。
 父親・マーティが「フィルは冷たいやつだ」と言うと、母親・ローズは「フィルは忙しいのよ」と答えたりします。

 ここで、ベンとその仲間が、車のトランクから死体を引きずり出して穴に落とし、その上から生コンクリートをかけてコンクリート詰めにするシーンが挿入されます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作の時代は1930年代。ニューヨークからハリウッドにやって来た主人公の青年が、そこで美しい女性と出会い恋に目覚めますが、結局うまく行かなくなり、再びニューヨークに戻って大成功するものの、……というお話。黄金時代の1930年代のハリウッドとニューヨークの有様が二都物語のように映し出され、それを背景に甘くも悲しいラブストーリーが綴られていきます。相変わらずポンポン勢いの良い会話が飛び交い、またオールドファッションのジャズがふんだんに流れて、いかにもウディ・アレン監督の作品だなという感じがして、まずまず楽しめました。

(2)ウディ・アレンのこれまでの作品では、いろいろな都市が舞台となっていますが(注2)、本作のように、一つの作品の中で二つの都市を取り上げている映画は、余り見かけないように思います(尤も、クマネズミが彼の作品をことさらに見るようになったのは、せいぜい2006年の『マッチポイント』あたりからにすぎず、ごくごく狭い範囲に過ぎませんが)。
 それでも、『ブルージャスミン』(2014年)では、主人公のジャスミンケイト・ブランシェット)のニューヨークにおける豪奢なセレブぶりと、サンフランシスコにおける零落した生活ぶりとが対比的に描かれています。ただ、その作品の場合、ニューヨークのシーンは、ジャスミンの回想の中で捉え返されているに過ぎません。
 これに対して、本作においては、まず、ボビーのロサンゼルス(ハリウッド)での暮らしぶりが描かれた後に、ニューヨークでの物語が映し出されるのです。
 とはいえ、本作の場合、フランス大革命期のロンドンとパリを舞台に描かれているディケンズの『二都物語』ほど波乱万丈の物語というわけではありません。それでも、ロサンゼルス(ハリウッド)とニューヨークという二つの都市がほぼ同じウエイトで描かれています。

 そして、この2つの都市をつなぐのが、本作の主人公のボビーと、彼の愛するヴェロニカ。
 と言っても、ヴェロニカは、実際には2人の女性なのです。
 ハリウッド時代にボビーが付き合ったヴェロニカは、ヴォニーという愛称で呼ばれています。
 そのヴォニーは、ある男とボビーの二股をかけていて、最後にボビーは振られてしまいます(注3)。



 これに対して、ニューヨークでボビーが出会ったヴェロニカブレイク・ライブリー)は(注4)、ボビーとの間で子供ができると家庭に入り貞淑な暮らしぶりを見せるのです。



 あるいは、ヴォニーとヴェロニカで、ハリウッドとニューヨークを象徴させているのかもしれません。

 他方で、ボビーは、ハリウッドでは、フィルの事務所で雑用をこなしているにすぎませんでしたが(注5)、ニューヨークに戻ってからは、支配人となったクラブ「レ・トロピカ」が大当たりをして、一躍名士になります。



 図式的に言えば、ヴォニーの持っているハリウッド性(注6)といったものが、ボビーのニューヨーク性(注7)とぶつかりあってバランスが取れずに2人の関係は崩れてしまいますが、反対に、優れたニューヨーク性を持つボビーは、ハリウッド性を前面に出さないヴェロニカと釣り合ったのでしょう、その関係は保たれて子供までできるのです(注8)。

 さらに言えば、叔父のフィルと兄のベンも、この図式に載せることができるかもしれません
 まず、この映画に登場するフィルは、ハリウッドでエイジェンシーとして水を得た魚のごとく活躍しています(注9)。



 また、ギャングのベンは、本作の全体のトーンからすると、なんだか酷く異質な感じがするとはいえ(注10)、でも、ニューヨークに戻ってきたボビーを援助する必要不可欠の登場人物でもあるのです(注11)。

 あるいは、このハリウッド性やニューヨーク性といったものは、ウディ・アレン監督の中にある2つの傾向なのかもしれません。
 本作のような二都物語を制作することによって、80歳を超えているウディ・アレン監督は、自分というものを観客にさらけ出しているようにも思えます(注12)。

(3)渡まち子氏は、「本作はパンチ不足で物足りなさが残るが、シャネルの華やかな衣装と、アレンと初コラボの名撮影監督ビットリオ・ストラーロが映し出す魔法のような光が、人生のほろ苦さを雄弁に語っている」として60点を付けています。
 樋口尚文氏は、「これは辛うじてその残り香を知るアレンが、むちゃで活気ある都市の黄金期を礼賛するファンタジーなのだ」として★3.5(★4つのうち)を付けています。
 ロサンゼルス映画批評家協会会長のクラウディア・プイグ氏は、「ストーリーの軽妙さは魅惑的に見えて、新鮮味を欠く。ウディ・アレン監督の初期作品にありがちな感じを与えるため、熱烈ファンは魅了されるだろうけれど」として★2つ(★4つのうち)を付けています。
 渡辺祥子氏は、「片や80歳過ぎの監督ウディ、片やもうすぐ80歳の撮影監督ヴィットリオ、というベテラン映画人が楽しみながら作ったように見える人間臭い世界」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「シニカルなユーモアが利いたセリフとジャズの音色は、安定のアレン節。人生の選択をめぐる展開は甘さと苦さのブレンドが絶妙で、どこか中ぶらりんなラストも人生の滋味を感じさせる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『教授のおかしな妄想殺人』などのウディ・アレン

 出演者の内、最近では、ジェシー・アイゼンバーグは『グランド・イリュージョン』、クリステン・スチュアートは『アクトレス 女たちの舞台』、スティーヴ・カレルは『フォックスキャッチャー』、ブレイク・ライブリーは『ロスト・バケーション』、コリー・ストールは『ブラック・スキャンダル』、パーカー・ポージーは『教授のおかしな妄想殺人』で、それぞれ見ました。

(注2)アメリカの諸都市のみならず、ロンドン、パリからバルセロナ、ローマといったところまで。

(注3)ヴォニーについてモット述べれば、ボビーがハリウッドに来た最初の頃、ヴォニーは、フィルに命じられて、著名な俳優たち(スペンサー・トレイシー、ジェーン・クロフォード、ロバート・テイラーなど)の豪邸をアチコチ案内します。その際、ボビーに「この内のどれに住みたい?」と尋ねられると、ヴォニーは、「ビバリーヒルズは嫌い」と答え、さらに「女優志望では?」と問われても、「馬鹿な夢だとすぐに気づいた」と応じます。でも、フィルと結婚して、ニューヨークのボビーの店にやってきた時は、ハリウッド俳優たちのゴシップについて、自分からドンドン喋る女になっていました(女優にならなくとも、ヴォニーのハリウッド性が満開です)。

(注4)ヴェロニカは、市の広報係に勤務していて、ボビーと出会った時は離婚したばかりで、ボビーが午前1時半にもかかわらず誘うと応じたのです。その際、ジャズを演奏しているバーに行くのですが、ヴェロニカは、「ユダヤ人は異国的だ」とか「ユダヤ人は強引だ」などと言ったりします(ヴェロニカも、ボビーを憎からず思ったのでしょう)。

(注5)ボビーは、しばらくすると、ストーリーアナリストというポストに昇任しています。 ですが、結局ボビーは、「この街(ハリウッド)には失望した。結婚して、ニューヨークに行って、グリニッジ・ヴィレッジに住もう」とヴォニーに言うことになります。ボビーには、ハリウッド性の持ち合わせがあまりなかったのでしょう。

(注6)あるいは、人と人との交流から立ち上る祝祭性とでもいった感じでしょうか。

(注7)もしかしたら、企業を大きくしていく事業性とでもいった感じでしょうか。

(注8)ただ、ニューヨークのボビーの店にハリウッドのヴォニーが現れると、ボビーとヴェロニカの関係は影響を受けるでしょう。
 でも、ボビーとヴォニーは、一時的に昔のよりを戻すものの、ハリウッド性を持つヴォニーと、ニューヨーク性を持つボビーとでは、やっぱりうまい関係を持つことは出来ないのでしょう。結局、別々の場所で年末のカウントダウンを迎えることになってしまいます。

(注9)フィルについては、その仕事内容からすると、『ヘイル、シーザー!』に登場する“何でも屋”のマニックスジェシュ・ブローリン)に雰囲気が類似しているように思えました。
 尤も、フィルは、自分の抱える俳優を映画会社とか監督などに売り込むのが商売でしょうし、マニックスの方は、映画会社の中で起こる様々な問題を解決することが商売なのでしょう。

(注10)ベンについては、ギャングとして、コンクリート詰め殺人を仲間と行うシーンが何度か映し出されるのです。

(注11)ベンは、ギャングとして力を持っていたために資力があり、ボビーがハリウッドにいる時には仕送りをしたり、夢破れてニューヨークに戻ってきた際には、ボビーを助けるべく、自分が経営するナイトクラブの支配人に据えたりします(ボビーの家族は、しがない宝石商である父親の上がりでカツカツに生活しているにすぎず、戻ってきたボビーを援助することなど出来ない相談でした)。

(注12)もう一つ、本作に見られるのは、ウディ・アレン監督がユダヤ人であることのこだわりでしょう。
 例えば、ボビーは、ハリウッドにやってきたばかりの時、ベンから教わった電話番号を使って女を呼び出したのですが、その女の名前が「シャーリー」であるとわかると、「ユダヤ人の娼婦なんて」と言って、金を渡すものの寝ないですぐに帰してしまいます。
 また、ベンは、捕まって死刑の判決を受け、キリスト教に改宗して処刑されます。そして、そのことを聞いた母親・ローズは、「殺人と改宗なんて、何か悪いこと私がしたっていうの?その2つではどっちが悪いの?」と言いますが、父親・マーティは、「俺は、神の沈黙に抗議する。ずっと祈ってきたにもかかわらず、答えがないんだ」「ユダヤ教には来世がないのだ」などと言います。ここらあたりは、ウディ・アレン監督のユダヤ教に対する否定的な見方が表されているのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:カフェ・ソサエティ