多和田葉子さんがクライスト賞なるものを授賞されたらしい。何でもドイツでは百年の歴史があるたいした文学賞らしい。私は彼女のエッセイの一愛読者に過ぎないが、おめでとうございますと申し上げたい。
母語でない言葉で優れた小説を書くのは難しいことなのに、賞までとは凄いと思う。
言葉が出来なくても伝わるように言う人が結構居られるが、世界一周の旅をしたナオトインティライミが独白しているように言葉なしで考えを伝えるのは難しい。身振り手振り片言で出来るコミュニケーションは限られたものだ。
残念ながら最近多和田さんの日本語のエッセイが出ない。そろそろ次のをお願いしたい。
今日も雨、もと言いたいほど今年の十一月は雨が多い。幸いさほど寒くなく、濡れた落ち葉を踏んで出てきた。
土佐と越後では南国と北国になるわけだが、非のようで似たことが起きている。土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た、越後の上越で坊さんひき逃げするを見た。
片や若い坊さん、片や年老いた坊さんでかなり状況は異なるが、僧侶に御法度のことをしでかしている。然るに糾弾の穂先はさほど鋭くないようだ。駄目な坊主という程度のお咎め?で、裏を返せば期待されなくなっているのかもしれない。まあ、門外漢からすれば、俗臭ふんぷん、果たしてそれで良いのかと首を傾げたくなる。人間は罪深い存在だからと言われても、確かにそうだとは思うが、こうした場合、言い訳にも聞こえる。
世間の眼というのは危うく流されるところもあるが、肝を外さないところもある。例えば我田引水と言われそうだが、十数年前から医者に対する風向きが少し変わっている。俗悪の算術医とステレオタイプに叩くことが減ってきた。なぜ、風向きが変わったのかはよく知らないが、医者としては理解が進んだと感じている。
坊さんの場合はどうなんだろう。ひき逃げの波紋は広がるだろうか?。
衰えは足からというのは本当のようで、歩くのが遅くなった。どうしてそれが分かるかというと、朝駅まで二十分で歩けなくなった。高々一二分のことだが、十分間に合うと思って出ると、改札から駆け足しないと電車に間に合わなくなった。歩くのが遅くなったのは徐々にのはずだが、自覚するようになったのは半年ほど前からだ。百メートル歩いて五メートルほどの僅かな遅れだから、駅まで歩く時間と言う尺度がなければ気が付かなかったと思う。
別に衰えは足だけではないのだが、歩行能力は分かり易い老化の尺度だ。孔子も十歳毎に境地を表現しているが、どうも四十、五十、六十、七十とキリがよいところで、人間は心持ちが変わるようだ。勿論、そう思うからということもあろうが、峠を一つ越えると昨日とは違うと感ずる。唯、人間は現在を尊重する知恵?を持っているらしく、まだまだこれから、老いてなるものかという気持ちも出て来る。
孔子の人生の人生指針境地表現は七十までだが、21世紀は八十、九十まであってもよさそうだ。時代が違うから三十にして立たず、四十にして惑い・・・七十にして矩を超える人達が溢れているし、四十にして**などと言っても何それと言われそうだが、21世紀版があっても良さそうだ。
呉智英さん辺りに考えて貰いたい。
漸く落ち着いた晩秋が感じられるようになった。季節の移ろいは生きていることを実感させてくれる
生半可な知識でこの七、八年政治の動向に関心を払ってきたが、政治では如何に権力を得てそれを如何に維持するかという戦略が肝心要と見えてきた。何のためにといえば、概ね自国や自集団の生存確保や利益増大の為ということになろう。自由平等博愛などという理想は進化の過程ではごく最近の出来事で、まだまだ遺伝子にきちんと組み込まれていないようだ。
政治戦略は表では巧言令色で目眩ましてまやかす方策で当然仁は少ない。裏では権謀術数を極めた作戦が錯綜し暴力も物を言う。
トランプ現象とそれを得たり賢こしと解説する評論家を目の当たりにして、浮かんできた感想だ。
こう書いて、市井で平凡に診療してきた自分には別世界のことのようにも思える。唯、医師会活動や医療制度では時に黒い圧力を感じることがあったので、現実にあることだと思う。
ハリルジャパンがサウジに勝てた。得点した清武原口を高く評価したい。月末にハリルホジッチ監督の進退を日本サッカー協会が検討するようだが、交代させる必要はないと思う。私の評価は7点の合格で、未だ少し伸びしろがありそうだ。
このところ高齢者運転による人身事故報道が多い。急に増えたというわけではないと思う。たまたま重なったか、マスコミが大きく取り上げるようにしているか、いずれかだろう。こうした報道を契機に高齢者運転対策が俎上に乗るだろう。ただ、医師として申し上げたいのは、年齢だけでは分からないと言うことだ。六十を過ぎると脳身体年齢と暦年齢の個人差が大きくなり、八十過ぎたら運転は駄目とは決めつけられない。後期高齢者になったら毎年適性検査を受けるようにするのは、一つの対策だと思う。
ただ、判定は簡単ではないし、公共交通機関のない所で生活する人には車は必須の移動手段なので、一概に厳しければ良いとも言えないと思う。それこそ、自動運転車が実用になると随分助かる人は多いと思う。
患者さんの中には、この人運転は危ないなあと感じる人も皆無ではない。それとなく、そろそろ無理ではないですかとお話しすることもあるが、反発されることも多く、家族と協力して返納に持って行くこともある。初期の認知症は、普通の診察では医師でも気付くのが難しく社会というか地域全体の問題と捉える必要がある。唯、地域の連携といっても、実際には地域格差があるし、ご近所付き合いも疎遠になっているのが現状で、発見の遅れる認知症は多いと思う。それに個人情報が一つの壁になって、余計なことをと問題になることもありそうで、実際にはなかなか難しい問題も多い。