半藤一利さんが新聞に人類が歴史から学ぶことは人類が歴史から何も学ばないということであると引用したくなると書いておられた。
半藤さんはあたかも臭いもの?に蓋のように語られてこなかった昭和前半の日本史を正面から語り始めた文人で、この半年ほどで何となく漂ってきた復古調に、ムードで動いてしまう日本に危惧を持たれてこうした引用をされたのだろうと思う。
本当に、戦争や弾圧そして差別や排除の絶えない世界を見れば、歴史の悲劇から何も学ばない度しがたい人間像が浮かび上がる気がしてくる。
愛や平和を口にするのは簡単だけれども、分け合えば足りない資源や食料を目の前にすれば、分捕り合戦になるのを避けるのは極めて困難なのが現実というものだろう。
しかし、歴史から全く何も学んで来なかったかといえば、それは違うと思う。学んだ結晶のひとつが憲法なのだ。日本国憲法では異なる意見を力で抑え排除するのを避けているのが、読んでみればよく分かる。日本国憲法は三十分もあれば読める短い文章だ。勿論、きちんと理解するには何時間もかかるだろうし、解説が必要だ。私も全部ちゃんと分かったかと言われると心許ない。
憲法は人間が歴史から学んで考え出したもので、犬や猿には憲法はない。考え出したものだから、気分や空気とは違い、好き嫌いも排除されている。気分や空気そして好き嫌いで動く危険のある集団心理や武力暴力による訴える勢力のブレーキになっている。
日本国憲法はアメリカに押しつけられたものだからけしからん、だから変えなければならないという論法があるが、ここには二つ詳らかにすべき問題がある。一つは憲法成立の経緯をきちんと知らなければならないということ。もう一つは押しつけられた?ことと憲法の内容は別のことなので、内容の何処に不備があるかを明確に指摘する必要があることだ。「冷蔵庫からマヨネーズを持ってきてくれ」。と頼んで嫁が持ってきたから気に入らない、娘が持ってきたら宜しいといった気分の問題ではない。
気分で多くの命が失われることがあってはならないと思うけれども、気分で人類が存続してきたのも事実で、どうしたものか私の手に余る問題のようだ。