駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

田原総一郎再び

2009年10月06日 | 人物、男
 田原総一郎には辛い評価をした。尤も、この人は数多の批判を物ともせず、ジャーナリズムの光と陰の中を駆け抜けてきた猛獣なので、辛い評価など何処吹く風だろう。
 物事を単純化し過ぎる、AかBと迫っても難題の解明は進まず、かえって誤った方向に誘導される危険がある。人間原理に偏りすぎる、思惑や確執で物事が決まるように見るのは客観性に乏しく科学的でない。と無い物ねだりのような批判をして、後継者の出現を望んだのだが、なかなか田原総一郎ほどパワフルで蓄積のある人は居ないようだ。サンデープロジェクトや朝までを見ると、これだけの人はおいそれとは出てこないと感じさせられる。
 あながち的はずれな批判ではないと思うが、効果のない批判と認めざるを得ない。角を矯めようとすれば、角に吹き飛ばされてしまう。
 今しばらくは総一郎の咆哮が響くだろう。視聴者は猛獣使いとなり、参考資料として視聴する力を持たねばなるまい。
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汗牛充棟

2009年10月06日 | 身辺記
 汗牛充棟とまでは行かないが本に埋もれて生活している。写真は書斎の右手で主に仕事に関した本が置いてある側、左手と後ろにも本が迫っている。十年前引っ越した時、忍び難かったが千冊くらい捨てた。ほとんどは二度と読まない本だったと思うが、確実に脳味噌の一部分が失われた。書名を見ても碌に何が書かれていたか思い出せないような本でも、脳外の記憶場所としての位置があり、書庫にあれば記憶媒体として働いていると失ってから実感している。
 新築する時、図書室を作りたかったのだが、妙な遠慮と染みついた節約精神から諦めてしまった。二度とない人生を自ら狭めてしまったと後悔している。しかし心の何処かで、そうしたことは往々にしてあり、分相応に夢は叶えないのが宜しいと何者かが囁いてもいる。
 小説はほとんど読まなくなっていた(一部の作家を除いて)のだが、ブログを読み書くようになって、また少し新趣向のものを読むようになった。宣伝はほとんど眉唾と思っているが、ブログの感想はおおそうかと食指が動く。
 読むばかりでなく、読まれる物をと還暦になったら小説を書こうと思っていたのだが、一向にその気配もなく過ぎてきた。臨床医は細事に忙しく、何かを捨てなければ別のことをすることは難しい。尤も細々ではあるが絵は描いているので、あるいは物書き教室に通えば可能かもしれない。要するにその才能と動機に欠けるらしい。
 さほど多くはないが書籍の他にいくつか目を通すブログもあり、書斎に座ってあれもこれもと思う間に睡魔に襲われている。
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