駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

歴史的理解を

2009年07月03日 | 世の中
 断片的な知識しか持たない私ごときが歴史の大切さを説くのは、滑稽かもしれないが、物事の理解に歴史的視点は欠かせないと思う。
 時間は流れても時は流れない、積み重ねられてゆく事象が時を形作ってゆくように感じる。それをある広がりを持って捉えれば歴史になるだろう。言い過ぎと思われるかも知れないが、世の中で起きている全てのことは歴史的考察なしには十分理解できないのではないだろうか。
 飛躍する?が、今日本の政治に起きつつあることも、歴史的な目で見ないときちんと評価できないと考える。まあ、何百年というスケールでなく、自分の半生を振り返って考えてみるだけでも、例えばどこかでこんな顔を見たよなあ、そう言えばうまい話には気を付けろと言われたなあなどでも、思い起こせば、鵜呑みにするよりはましな理解ができるだろう。
 勿論、歴史にも覚束無い所がある。21世紀になって一層進んできた電子メディアによる膨大な情報の発信とそれに伴う大衆参加型個別化社会は現在進行形の現代史で、渦中にあって考えるということになるのだろう。所謂庶民の生活史や悪行の歴史はなかなか表に現れにくく、教科書的な歴史からは漏れてしまう。歴史だから過去完了かと思いきや、その解釈はさまざまで、事に政治がらみでは恣意や意図が見え隠れする。
 そういう側面はあっても歴史的な視点はいくらかでもましな選択を為すのに欠かせないと思う。。
 なんだか教師や教授のような物言いだが、本末転倒枝葉末節で正気を失っている永田町の人々に、普通の人達が翻弄されないように、日本のどこかで町医者は僭越にも願っているのです。
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眠れぬ夜のために

2009年07月03日 | 小考
 眠れないという患者さんはとても多い。特に中年以降の女性に多い。
 不眠症はいくつかの型に分けられ、型によって対応が異なるので、問診で鑑別を試みる。しかしながら、何だか眠れない、どうしても眠れない、精神科を受診しても駄目だ・・と結局不満と不平に収束する患者さんが七、八人に一人くらいおられる。 実はこういう訴えの患者さんは、家族は寝ていると証言され、睡眠時間は確保されている。要するに眠った気がしないというのが本態なのだ。
 こうした患者さんは自分の考えと感覚に囚われ、その上に理解力が低い方が多く、なかなか説得が難しい。結局、毎回同じ訴えを聞かされることになる。訴えればある程度気分が安まるようで、そこそこ満足して帰られる。忙しい時はどうして精神科へ戻ってくれないのだろうかと思うこともあるが、まあ、それが町医者の仕事の一部なのだと自らに言い聞かせている。
 私は精神科医ではないが、こうした訴えの背景には不安というか不全というか、何か安心立命を妨げるものがあって、ぐっすり眠れないという感覚訴えになっている場合が多いと診ている。ヒルティの著書を読もうとするような方はおられず、狭い小さな視界不良の世界に留まっているため、解決の光明が見えず、やがて家族からも疎んじられるという経過を辿ることも多い。高齢者の場合は、呆けに進展してゆくことも少なからずある。
 どうすればよいかというと、難しいことだが自立というか自助というか、広い視野の中で客観的な病識と自発性を持てれば解決の糸口が見つかると思う。
 女性に多いと言うと身構える人が居て困るのだが、やはり彼女達の生活史(世界の狭さや依存性)が関与していると思う。
 仕事が大変とか、介護が大変とかこぼされる方が多い。確かに大変なのだが、実はそうしたやることがあるという生活がその人の精神を支えているという側面があり、なんとも微妙なバランスの上に我々は生きているのだ。
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