山本五十六の生涯を描いた「海燃ゆ」を年末に10日ほどかけて読んだ。図書館のリサイクル本だから書き込み自由だ。工藤美代子(1950年生まれ)が2003年に「海続く果て」と題して新潟日報に連載したものだ。長岡に観光で行くと、良寛と河井継之助にくらべて五十六の名を目にすることは少ない。しかし長岡には「山本元帥景仰会」「山本五十六記念館」があるという。読後に印象に残ったことを記してみた。
五十六は4年半アメリカに駐在したことがある。52歳のとき海軍次官としてロンドン海軍軍縮会議の予備交渉にも参加し、まとめる努力をしたが1936年に条約は失効する。国防の主力は航空機であり、「大和」「武蔵」などの建造に職を賭して反対したのは五十六だった。しかし1936年二つの大艦の建造が決定する。五十六は三国同盟反対を主張した。そこで脅迫状が舞いこんだり、国賊と非難する雑誌もあった。しかし1940年三国同盟は調印される。将棋とブリッジはめっぽう強かったという。
長岡藩の祖父と実父の高野貞吉は戊申の役でそれぞれ戦死そして負傷している。五十六は貞吉の六男として貞吉が56歳のとき生まれた。高野五十六が長岡藩家老山本家の名跡を継ぎ山本五十六となったのは32歳のときである。34歳で12歳年下の会津出身の三橋礼子と結婚。「父山本五十六」の著者である長男義正氏によれば「生来寡黙で、家にいるときも、どちらかといえばむっつり屋で言葉は少なかった。庭に面した縁側の椅子に寄りかかって、じっと目をとじている姿が最も強く残っている」
貞吉の長男の譲の長女に高野京がいる。姪といっても4歳年長で五十六にとっては姉のような存在だった。また、きわめて優秀であり帝大附属病院の看護婦長をながく勤め、高野家のためと生涯独身だった。京に海軍兵学校から、「兵学校案内記」と題して、写真と共に詳細に学校生活を綴った長文の手紙を出している。五十六は早く精神的に自立しており、母親に甘える感情は乏しかった。それだけに年上の京は、どこか心の底辺で深くつながっている唯一の女性だったのだろう。五十六はその生涯にわたって京に膨大な数の手紙を送っている。