玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

62年前の話

2006年01月12日 | 無断転載
 未知の方からブログにコメントが寄せられた。ネットワークの広がりに感激した。しかも父の知人であるSさんは82歳である。メールアドレスにhayabusaが入る。戦時中の戦闘機の愛称だろう。ホームページも開設されている。ご高齢の方たちのインターネットコミニィケーションテクノロジーに私はおよばない。

 Sさんと父は62年前の戦地での短い期間のご縁である。当時Sさん20歳父は26歳である。昭和19年父は三重県の明野飛行場を水さかずきで母に送られて南方におもむいた。私はまだ母の胎内にいた。母は父との最後の別れと覚悟したという。

 Sさんからこのブログへのコメントのことを郷里の父に連絡したところ驚きそして喜んだ。戦友が自分を介さず息子と繋がったネット社会について考えたことだろう。その後にSさんから私に届いた事実の記録のメールをつぎに公開させていただく。

 私がお父上と始めてお会いしたのは昭和19年の5月頃だと思います。当事私の部隊はニューギニアのホランジア飛行場に展開して連日米軍との激しい戦闘を行っておりましたが、4月22日連合軍の上陸に会い数名の生存者を残し全滅しました。私はニューギニアに出発する直前にマラリアに罹り、本隊に遅れて単機追走しましたが途中インドネシアのブル島で愛機が故障し、やむなく船便で隣のアンボン島に渡りましたがその先には行けず、飛行団の指示でハルマヘラ島のミチ飛行場に行きましたが、そのころこ飛行場に南方航空の飛行機が飛来して、飛行第77戦隊が比島のマニラで再建中との話を聞き、一時所属していた飛行第68戦隊○○○○少佐(お父上と同期生)に申告してマニラに着きましたが、部隊の居場所が分からず航空寮に滞在していたところに私の同期生○○○○君がトラックで迎えに来てくれアンヘレス飛行場に着きました。そこで初めてお父上にお会いして今までの経過を報告し、約4ヵ月の追走に終止符を打ち訓練に入りました。
 戦隊長のお父上は「我々はシンガポールで戦隊を再建する」と話されシンガポールのテンガー飛行場で飛行機と操縦者の補充を図り、概ね部隊としての形態が整った7月末に戦隊は解散することになり、人員、機材とも第17錬成飛行隊に移管されることになりました。お父上はこの時新設の飛行第105戦隊に転属されました。短い数ヶ月でしたが忘れられない思い出の期間でした。
    


コメント (1)
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