1941年のこの日に日本は太平洋戦争を開始しました。欧州の強国をまねし、植民地を広げ、日清・日露戦争などの勝利により勢いづいていたのです。アメリカを 「たかが新興国恐るるに足らず」 と捉らえ、はるかに大きい国力を持つアメリカに対して、ハワイの真珠湾に宣戦布告なしの奇襲攻撃をしたのでした。
1942年、日本軍はアメリカとパプアニューギニア本島を分断する目的で、10万人以上を派兵、ラバウルを占領しました。それ以降飛行場建設がすすみ、ここは最前線にしてかつ最強の航空力を持つ島となりました。ガナルカダル島に上陸するアメリカ軍に対し、戦争が終わるまで何千機もの日本軍航空機がここから飛び立ちました。その結果日米両軍をはじめ、現地の人々も含め数え切れない位の人々が犠牲となりました。ここは 「鉄が沈む海峡」 とも言われ、世界第二次大戦の悲劇の場として今もなお語り続けられています。ラバウルはこのとき破壊された航空機の残骸や、沈没船が多く残されたままです。
60年の時を経て私達を迎えてくれたラバウルの地は一部は火山灰に覆われていました。村中からかき集めたと思われる車に乗って水溜りをよけつつ森林をくぐり抜けました。天候は熱帯性で蒸し暑く当時の困難がしのばれました。戦闘機の残骸はいずれも屋外に放置され、風化が目立っていました。現地は観光地ではないためプロのガイドは殆んど居らず、兼業の婦人が道案内的に同伴してくれました。地下壕跡にはごく少数しか入れそうにない狭い作戦会議室と思われる部屋があり、壁面には会議に使われたであろう地図が残されていました。あまりの狭さに息苦しい思いでした。酷暑のなかをどうやって風をいれたのでしょうか。
見晴らしのいい高台には慰霊塔が建っていて、その前で献花し全員でお参りをしました。昼食時に現地の人々が踊りを披露して下さいました。中に一曲 「私の~ラバさ~ん、酋長の娘ー・・・・」 と日本語の歌がありました。夜には一時乗船してきた子供達が現地と日本の歌を歌ってくれました。また翌日の船上では洋上慰霊祭が執り行われ、気笛一声のもと黙祷、般若心経の読経、ご焼香が行われました。乗客の中に戦中と戦後パイロットをされていて、この行事に参加するのが唯一の目的だという老夫婦がいらっしゃいました。他の寄港地でのツアーには一切参加されず、ラバウルだけはとツアーに参加され、念願が叶いどんなにかホットなさったことでしょう。
ついでながら、年末に見た映画は 「男たちの大和」 です。まだ幼さの残る若者たちが祖国を思う一方で、家族に心を残しながら死に行くさまは涙なしには見ることが出来ません。何がどうあっても戦争はしてはならない。こんな当たり前のことが当たり前でなくなっている現在に恐怖すら感じています。私は戦争体験者であった自分の親から、聞くべきことを十分に聞くことなく親を亡くしました。親としては思い出すだにつらいこともあったからでしょう。これからはコツコツと本の中などから学び取るほかありません。写真は爆撃機の残骸。
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