玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*孫のことなど

2019年05月02日 | 捨て猫の独り言

 アトランタの孫娘たちが6月16日に来日して50日ほど滞在することが決まった。これまで通り母親と一緒に来て、母親は先に帰る。残された孫娘たちは、祖母が送り届けるのを止めて二人だけで飛行機に乗り帰国することになった。向こうでは二人ともサッカークラブに参加して試合経験を積んでいるという。6月7日からは女子ワールドカップのフランス大会が始まる。滞在中は熱心にテレビ中継を見ることだろう。

 カラマーゾフを少しずつ読んでいるが、とうとう「ねぎの話」に遭遇した。「天使が火のうみのいじわる婆さんに差し出す一本のねぎがぷつりと切れて婆さんは再び火のうみへ」という話です。囲い者のグルーシェンカがこのたとえ話を持ち出して「わたしがそのいじわる婆さんで、わたしをいい人間だなぞと思わないでちょうだい」とアリョーシャに訴える。芥川龍之介は稀にみる換骨奪胎の名手のようだ。

 遠藤周作の「私にとって神とは」に関しての追加です。孤里庵先生は日本人にキリスト教で言う罪意識があるかないかということで悩みました。そして日本人である自分の肉体が、キリスト教という洋服を着せられた時のぎこちなさ、ダブダブな感じ、それを和服に仕立て直そうと試行します。親鸞聖人の「われわれ凡夫は罪障が深い」のその罪障とは悟りがどうしても開けない(=苦)ということを罪深いと言うのではないか。

 キリスト教で言う罪というのは神による救済を絶望することです。日本人の「ツミ」のイメージは生きる上での苦しみのことです。自己探究の仏教の場合、根底においては自分を清浄にすることが目的で、罪というのはその清浄を乱すことを言ったわけです。他者との関係から起こる罪ということを問題にしないで、苦だけで人間の行為をとらえることはもはやできなくなっているんじゃないか。

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