「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の項にさしかかり、先へ読み進めなくなった。ここはひとまずキリスト教についての知識をいくらか得たうえでじっくり読むべきだと考えた。これまでの人生で、信仰などということに関しては縁のなかった私だが、最近は親鸞について調べたり考えたりする機会もあり「宗教」というものがなんだか向こうからやって来ているような感じがしている。(モッコクの殿ヶ谷戸庭園)
本棚の遠藤周作著「私にとって神とは」を読んだ。この本はいつの間にか私の本棚に紛れ込んだものだ。誰かの手で、ところどころに傍線が引かれている。カトリック教徒である著者が質問に対して答える形になっている。本のあとがきには「迷いふかく小説を書かざるをえなかった男の気持ちを率直に語った本として、読者がご自分で宗教をお考えになる時の一助にもなれば嬉しい」とある。これはというものを以下に記す。
おっかない父のイメージのような神は旧約聖書の中にたくさん載っています。旧約聖書はキリスト教の聖書というよりユダヤ教の聖書だからです。それをひっくり返して母の宗教にしたのがイエスだったと私は思うのです。復活とは蘇生ではなく、神の永遠の命の中へ戻るということと、その理念が誰かに受け継がれることをいうのです。また「私はなぜ仏教よりもキリスト教に心ひかれるか」という興味深い問答もあった。
仏教の根本原則は執着は捨てよですから、人間のいやらしいところを追求することはなくなってしまう。キリスト教の場合は執着しているものを通して救いが来るという考え方です。またイエスと釈迦の最期も象徴的です。死というのはこの世界から新しい生命に入る通過儀礼だと思っています。それは試練であり、そして恐怖があり、苦しみが伴うのだと思います。仏教は死についてあまりにきれいな語り口だと感じてしまうのです。
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