玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*伊豆の下田へ

2022年04月21日 | 捨て猫の独り言

 来週、伊豆白浜温泉に2泊する。ホテルは白浜海岸を望む場所にあるという。白浜海岸は伊豆急下田駅を降りて、そこから岬をひとまわりすると見えてくる場所にあるようだ。真っ白な砂浜を期待している。せっかくの機会なので「ペリー来航」の歴史を調べることにした。参考図書は「ペリー提督日本遠征日記」と「黒船に乗っていた日本人」の2冊だった。(咲き始めの頃のハナミズキ)

 

 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督はアメリカ東海岸の海軍基地ノーフォークを1852年11月24日に出港し、アフリカ大陸の南端からセイロン、シンガポール、香港、上海を経て那覇に滞在している。さらに小笠原諸島を探索して那覇に戻り、ついに1853年7月8日に江戸湾に姿を現す。14日に久里浜で米国大統領からの国書を幕府に渡し、17日ひとまず浦賀を沖を出港し25日に那覇に投錨。これまで日本に接近した外国船は、まず長崎に回航されたがペリーはこの幕法に従わなかった最初の外国人となった。

 翌年の2月11日にペリー再び江戸湾に姿を現す。横浜村で米国からの献上品の蒸気機関車の模型の試運転や1マイルの電信戦を張り通話、農具の組み立て、江戸の力士の相撲披露などの交流があり、3月31日に日米和親条約調印。4月18日ペリー下田に入港し、5月13日箱館に向けて出航。6月7日下田に再入港、和親条約の追加13か条を締結(下田条約)。6月25日ペリー艦隊下田を出航し帰国の途につく。

 ペリーは琉球、小笠原諸島経由で日本にやってきて、途次の自然や風俗、文化の調査を行ったようだ。琉球は当時薩摩藩の支配下にあり、そのため「われわれの一挙手一投足、いつもスパイがつきまとって監視している」と怒っている。興味深いことだが「食という面では、日本や中国よりはるかに琉球の方がすぐれている」とも記している。ペリーにとって沖縄が重要な土地であったことは新たな発見だった。また「日本の、既婚女性と独身女性を区別するその黒い歯はぞっとしない眺めだ」とも記している。当時は、われわれが想像する以上に日本人の海の漂流者は多かったようである。

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