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あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

由比ケ浜から若宮大路

2010年04月15日 05時32分11秒 | 鎌倉
材木座海岸から由比ケ浜へ。
波打ち際は歩きにくいんだね。
昨日の嵐の名残か、時折大きな波が打ち寄せてくる。
でも浜辺を歩くのは楽しい。
トップ画像は砂浜をキャンバスに。…子どもの落書きかな?

なんとなく、芸術風味な写真を撮るのも楽々~。
モチーフはサーファーです。
…サーファーって、年中いるのだね。
まあ、夏は逆に人が多過ぎて波乗りには不向きかもな。
さて、滑川の河口で海岸とはお別れ。若宮大路に入る。
若宮大路の終点は鶴岡八幡宮でして、道沿いには楽しいものが点在してました。
ますはコレ。

昔懐かしのポストです。鎌倉では現役なんだね。

そんでコレ。
たぶん一の鳥居あたりにあったかと。
鎌倉でよくみかけるタイプのお墓ですね。一番下に蓮座。その上に基盤。更に柱。んでもって傘。でてっぺんに輪。
誰のだっけ?
…すみません。忘れてしまいました。

たい焼き屋さん発見!
ベンチもあるんで早速注文。

白いたい焼き。
なぜに白いんだろう~?
食感はモチなんだが…。コレってモチ?
聞くべし。
と、白いのは卵の白身とタピオカとキャッサバを使用して作ってるからなんだって。
へえ~~。
道沿いにハリス幼稚園を発見!
ここにあったのか…。

名前は知ってたんだけど。

非公開なので、玄関の外から外観を遠望。
隣に建つのは教会。



あと少しで鎌倉駅~。
な、長い散歩だった。
あ!

イル・ド・ショコラさんだ~。

かつて、画像の左下にあるお魚&貝チョコを父へバレンタインチョコとしてプレゼントしたことがあります。
そうだ。
ここの生シェルパイを自分土産にしよう~~。

生シェルパイはイル・ド・ショコラさんの看板商品です。
でもさすがに白いたい焼きを食べた直後だったので、後日いただきました。

生クリームを使用してるので、当日食べるのが正解です。
ちっ。美味しいものは美味しいうちにいただかなくては…。
日にちが立ってしまいましたが、それでも美味しかったです。
ちなみに本日のお散歩は21590歩、14、7キロメートル。カロリー消費は688キロカロリーでした。(たった688キロカロリ~?それって、カレー1杯くらい??)
ダイエットの道は遠い。




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驚き光明寺

2010年04月14日 07時43分22秒 | 鎌倉
光明寺初見参。
鎌倉には有名なお寺がいくつもあるけど、光明寺はそれらのある場所から微妙に遠い。いや、京都や奈良に比べたらずっと近距離にあるんですが、鎌倉観光は基本徒歩で移動するのが一番便利なのだね。道は狭くて渋滞っているのが常識。レンタサイクルというのもあるけど、鎌倉は坂と階段が一杯で、ルートを選ばないと自転車立ち往生もアリなんである。もちろん江の電やJR横須賀線もありますが、駅から結局徒歩なのだよ。
なので、今まで行ったことなかったんだけど、いつだったかここの立派な山門の画像を見まして「この山門は鎌倉で一番立派かも?」と。気になってました。
お昼もとって腹も膨れたことだし、少しだけ後戻りして光明寺へ。
トップ画像のように、山門は立派でしたが、山門の前面が駐車場になっていたのは風情台無しで残念無念。しかも!
訪れたのは、3月22日。春のお彼岸だったので、墓参りに訪れる客も多く、駐車場もそこそこ埋まってます。

期待の山門はそこそこ立派でしたが、上部に登れませんでした。
ちえ~~。
京都の南禅寺とか登れるのにな…。立て看板に書かれてる仏像もお顔を拝見出来ません。
………。
なんだか、最近気軽に仏像が見えなくなってきてるよな…。昔は京都も奈良も結構見放題&写真撮り放題だったよな…。
と。
オバさんは記憶の扉をうっかり開けるのであった。
なんでも保護というのも考え方としてわからないでもないけど、見た事もない物を大事にしようとは思わないんじゃないかな~?普通は。
昨今の若者の意見を聞いてみたいところ。
さて。

かくのごとく、光明寺はそこそこ大きなお寺です。
トップ画像でもわかるように、ここは法然さんのお寺。
つまり浄土宗だね。
…って、アレ?浄土宗って日蓮さんが邪法って切り捨てたまさにアノ宗教…。それが、日蓮さん所縁のお寺のすぐ側にこんなにでかいのがあるなんて…。なんだか、この狭い地域限定で面白い歴史が繰り広げられた予感がする~。
が。
調べないよっ。あれもこれも調べてたら大変じゃん!ねえ。
(うっかり光明寺さんの成立年を検索してしまいました。WIKIで。
創建は1240年。現在の場所に移転したのが1243年でした。ということは…。
検索検索。
日蓮さんの生存期間は1222-1282年。
あ、やっぱり~。
光明寺さんは、日蓮が生きてた時に作られたお寺なんだね。
しかも!!
先日の記事、安国論寺は光明寺さんから徒歩10分程度。そこで日蓮さんが立正安国論を書いたのが1260年!。
やはり、当時はいろいろあったんだろうなあ~。でもこれ以上は調べないよっ)
次行ってみよう!

まずはお参り。
出来るなら本堂でお参り。
なぜって、本堂は仏教芸術が思いっきり詰め込まれてて、天蓋とか贅を凝らしてあって必見なんだな~。
だが、日が悪かった!
お彼岸なのでお参りに来られた方が住職の読経に合わせてお参り中~。
ここはっ。一観光客としては撤収~。
そしてお庭を拝見。

あれっ!?
これって何かに似てる…。
金箔貼られてないけど…。
京都にあるアレに。
や。
気のせい気のせい。
手前の木は既につぼみもほころんで、スタンバイ完了中の桜ですね。
お薦めの桜スポット長勝寺と近いので、お散歩のコースに立ち寄ってみては?山門の手前にもいい枝振りの桜、あったよなあ~。

このお庭を拝見するには、靴を脱がなきゃなりません。ダンナは靴の脱ぎ履きが面倒だとパスしましたが、もったいないなあ~。
他にこんなお庭も発見。

石庭です。
お寺の石庭なので、もちろん全てに意味があります。

こんな感じで。
これって…。
どれも見覚え有る名前だね。
うん。
宗教界のビックネームばかりです。
いや~。こんなとこで再会するなんてな。と感慨にふけりたい人の為に、石庭の正面にはベンチが配置されてます。
が。
ここは本堂の隣。同じく靴を脱いででないと見えない場所です。
光明寺に訪問の際は、ぜひ靴を脱いで上がることをお薦めします。

さて。
怒濤のお寺巡りもこれで終了~。
いろんな知識を一気に詰め込んだ頭は爆発寸前。
こ、これはもう一回、海で癒しをせねばなるまい…。



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嵐の後の海岸には

2010年04月13日 05時09分02秒 | 鎌倉
なんでじゃ~~~!!
ふ、富士山が見えない~~っ!!!
朝、あんなにはっきりくっきり小田急線から見えてたのに~~~~!!!!!!
これは黄砂か??
黄砂なのか??
そういや、稲村ケ崎も心持ち霞んでるようだ…。

本来なら、稲村ケ崎の向こうに、どーんと富士の勇姿が見えたハズよ~~~。
せっかく、海と富士山を見ながらお昼のハズが、海とサーファーと●●を見ながらごはんになってしまいました…

●●には、漂着したモノが入ります。
トップ画像、何だと思いますか?
正体は大量に流れついた海藻です。
ここでちょ~~っと記憶を呼び覚まして下さい。
3月の3連休の2日目の朝は嵐でした。交通機関は軒並み大混乱。あちこちで運転中止とか運休が相次ぎました。
ええ。
東京ビッグサイトのHARU.C.CITYの開場時間が30分繰り下がるという前代未聞の混乱を来したあの日です。
で。
鎌倉を訪問したのはその翌日なんですね。
すると…。
海岸にはいろんなものが漂着してました。
トップの海藻の中に人影が確認出来ますか?
これ、何してるんだと思います??
実は私も最初何してるかわからなかったんですよ。
で、近くで観察して判明しました。
これは食べられる海草を選り分けて収穫してるのですよ。
よ~く見ると、ワカメやらヒジキやら取り放題なんですね。
でも、さすがに1日海岸にムダにさらされた海藻なので、食べれる場所で選んでる訳だ。
海藻~。
ダイエットの友!
カロリーはないが、買うと結構する!!
おもわず私も欲しいっ!と参戦しそうになりましたが、ムキ出しで家まで持って帰る訳にはいかず断念。

ロマンチックな漂着物発見!

いろんな形の貝殻が海岸で列を作ってました。
もし私が詩人なら、ここで一発素敵な詩を諳んじる所。
あれっ!?
これってもしや!!!
いつかの時代の須恵器?それともどっかで出た遺跡の土器??
「わ~~~い」とうかれてダンナに自慢げに見せましたならば、「それって漁業の時のロープを留めるヤツ」とバカにされてしまった~~。
「あ…」
でも悔しい~~。
(き、きみにはロマンがないっ!)と。負け惜しみを胸の中でつぶやいたりしなかったり…。

ところで。
この辺りって古い時代の港のハズ…。
関東大震災で被災したけど、汐が引けば港湾施設の石垣が出て来るハズ…。
どこ??
確か和賀江島の方角のハズ…。
目を凝らしましたがコレ!というのが確認出来ず…。

(つーか、今、間違いが判明しました。たまたま歴史散歩のブログをネットサーフィンしてて出てました。
和賀江島は島じゃなかったんですね
この辺りは水深が浅く、舟の座礁が相次いだので、貞永元年(1232)に、三代執権北条泰時の協力を得て日本初の築港を行いました。これをもって和賀江島となったのです。
だから、島を探してもある訳ないよな。
そして、現在港の後が見つけられなかった訳も判明。
周辺は石材が不足してて、港を作った時も遠くから石を運んで来たんですね。
鎌倉に近いので江戸時代まで港として使用されてましたが、関東大震災で石垣が大ダメージ。その後第二次世界大戦時に、砲台を作ることになり、壊れて使わなくなって放置されてた石材を持ち去った…と。
現在は干潮時に当時の石が水面下から現れるそうです。
そ…そうだったのか…。
見たければ、干潮の時じゃないとダメなのね。戻ります。)

もっと海を丹念に探ればいいのでしょうけど。もう足がね。おそらく2万歩超え確実の疲れ具合なの。

おそらくアレなんじゃないかな~?
わかります?
上の画像の水平線辺り。左の方に伸びてる低い石垣が。
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鎌倉の海へ

2010年04月12日 04時20分58秒 | 鎌倉
鎌倉は観光都市ですが、お散歩中に気軽に食事出来る所が驚くほどありません。
や。
店はある。
でも私のお昼はパンにお茶が定番なのだ。
元々は塩の摂取制限が1日6グラムという~…。関東の外食ならば、1食で5グラム超えは当り前って感じでして…。
ならばと塩の含有量が一目でわかるコンビニパンを買って、お散歩の途中でベンチでお昼を始めたら、なかなかに良くてハマってしまったのですよ。
で。
鎌倉だ。
お散歩の途中で食べれる場所は、源氏山公園か海岸くらいなんですよ。
で。
さすがにお腹が減ってきて。
今日のお昼は海を見ながら~。富士山見ながら~と決めていたので、安国論寺から一路材木座海岸を目指しました。
途中、予定してた寺は食事の後へ変更~。
って!!
変更の予定だったんですが、戻るより楽かも~?と。
路沿いにある寺2つに寄道。

ミモザの綺麗な来迎院。
でも時は既に逸してしまい、ミモザは既に見頃を過ぎてました。せめて3連休の初日に来てたらもっとマシだった!
なにしろ連休2日目はあり得ない程酷い嵐でしたから…。
次々~~。

路沿いの民家でボケの花が美しく見頃を迎えてました。
さて、後300メートルちょっとで海岸に到着なんですが、も一つ寄道。

ここは九品寺です。
今地図を見たら結構敷地を持つお寺だったのね(爆)
気づきませんでした…。
でもってこれだけ撮影して通り過ぎちゃった…。

ここを訪問した目的はこのボケの生け垣でした。

ウグイスだかメジロだかが来てました
でも携帯でうぐいすを撮影するのは難し過ぎっ。…コンパクトカメラでも難しかったが…。こういうのはデジタルカメラ&望遠レンズで遠目から撮影しないとダメだっ。
 
綺麗でしょ?
でも注意深く観察したならば、ハクモクレンも咲いてたハズ…。
日蓮さんのお寺周りを終えたなら、次はお花見散歩もかねての2寺さんだったので、事前に見頃の花をチェックしてたハズなのに~~。
ハラが減るとロクなことねえな…。
グレグレのまま南下。
途中でダンナのビールを仕入れてようやく海に到着です。
トップ画像は材木座海岸。
や、やっとごはん~~。
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安国論寺

2010年04月11日 04時27分55秒 | 鎌倉
名前でお察しの通り、日蓮さんはここで立正安国論を書き上げました。
トップ画像は安国論寺の山門です。わかりにくいけど、門の右手前には1~2分咲きのしだれ桜がありました。

この地には初代鎌倉幕府の執権北条時政(政子の父)の屋敷があった場所。鎌倉に来た日蓮上人が始めて草庵を結んだ所の一つと言われている岩窟がある。
その岩窟のそばに、弟子の日朗上人が建てた安国論窟寺がこの寺の始まり。
日蓮さんはこの地に20年住んで布教しました。彼は度重なる法難に会い、文応元年(1260)に松葉が谷焼き討ちの際、日蓮さんが避難したと言う南窟が寺の裏山にあります。

日蓮さんが避難した南面窟です。
ちなみに、このお寺は拝観料がいります。
でも100円なので鎌倉の拝観料の必要なお寺の中では最安。



趣きのある参道。

日朗上人御荼毘所。



本堂前にあった。仏足石など。

御小庵。

南面窟は山道にあります。山道を振り返るとこんな感じ。

ちなみに、訪れた3月22日は既にしだれ桜が3部咲き程になってました。

境内はこんな感じ。
あれ?これに富士見台がある~。今、気づいた…。

さて歴史好きとしては一応「立正安国論」についてかいておかねば。
立正安国論は、日蓮が文応元年(1260)に北条時頼に提出した文章のこと。
当時、北条時頼は鎌倉幕府の事実上の最高指導者です。
中味は結構過激。今なら名誉毀損モノ。
骨子を要約すると。
『当時相次いでいた災害を、日蓮は正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じてる為と、日蓮さんに対立する宗派を非難した。更にこのまま浄土宗を放置すれば国内では内乱、外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(立正)、国家も国民も安泰となる(安国)と主張した。』
………。
え~と。
そりゃあ、幕府は怒るわな…。
幕府はまじめに地震・暴風雨・飢饉・疫病の対策で四苦八苦してるのに。どこから予算をひねり出すか苦心惨憺なのに。
こんなん送りつけられたらそりゃキレるよな。
犯人を捕まえに走って当然でしょう~。天災はともかく不安のある庶民に危険な流言飛語を触れ回る人を放置出来ないものね。
ちなみに、北条時頼は信仰していたのは禅宗でして、日蓮さんが邪法として攻撃した宗教です。
今風に言うと「日蓮何サマッ!!」
なのに何故に日蓮宗は現代まで生き延びたのか??
それは元寇があったからかもしれん…。
元寇は文永5年(1268)モンゴル帝国が日本に攻めてきた事件です。
ええ。
日蓮さんが立正安国論を提出してから8年後です。
これがどういうことか?と言うと。
『モンゴルは都合2回?日本にやってきたのでして、「外国から侵略を受ける」と日蓮さんが書いた立正安国論はモンゴルが日本に攻めてくる都度一躍予言書に昇格した』のです。
もちろん幸運だったのは日蓮さん。
ほ~ら、私の言った通りでしょう~。と鼻高々に、以後も権力者への助言を続けました。そんで信徒は増えたのね。
………。
これって今みたいにテレビやラジオなんかないんだから、日蓮さんは自ら『私は幕府に進言した。立正安国論を。内容は…』と言って回ったってこと?
んで、在野の一新興宗教だった日蓮宗は、日蓮さんの死後も後継に恵まれ、遂には天皇に拝謁して講義するまでになりました
日蓮…。
自分の名前を自分の宗派につけた男…。
誰か漫画化してくれないかな~?
つーか、ドラマ化したら面白いと思うんだよね。
だって強烈な個性の男、日蓮さん。やることなすこと波風を立てる男。ドラマチックでいいと思うんだ。
でも。
日本じゃ「宗教」ってだけでは流行らんという…。
それって、絶対切り口間違ってるから!!
宗教に燃える人ってやっちゃうからつまらん話になるんじゃ!!
でも宗教からんだら色々バッシングする人も出てくるから、やっぱり人間日蓮でやるのも無理か…。
宗教者って歴史上の有名な武将よりドラマチックな人が多いと常々思ってます。
以前書いた夢想疎石って人もなかなか…。
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桜の隠れた名所長勝寺

2010年04月10日 04時56分10秒 | 鎌倉
上行寺から移動して長勝寺へ。
訪問したのは3月22日ですが、ここには四天王の銅像があるんですよ。
で、周りにはいい感じに桜の木がありまして、コラボ写真は面白い感じになるんじゃないかな~。
桜の季節はもうすぐそこ。
1月以内にここへ再訪?ちと、体力的に無理なんじゃ…。
でも観光都市鎌倉にありまして、観光客が満ちあふれる名所を外してここ。というのはアリです。
 


四天王を従えてるのは、日蓮さんですね。

おや?
ここの本堂って変った感じのデザインだけど、いい感じだなあ。

長勝寺は以前にまんだら堂跡にあじさいを見に訪れた帰りに立ち寄りました。
まんだら堂跡はあじさいが咲き乱れいい感じだったのですが、現在は非公開となってます。その時期に長勝寺に訪れますと、立派なタイサンボクの木に咲く白い大きな花を楽しむことが出来ます。
タイサンボクは見上げる木の上に咲くので、普通はなかなかアップで見ることの出来ない花なのですが、ここのタイサンボクは階段の側に立ってるので、階段の上から見下ろすことも可能。いい感じの写真が撮れますよ。

鎌倉のお寺には珍しく、水垢離の場所発見!

お散歩の後半の地図です。青いラインがお散歩コース。
長勝寺は右側中央あたりにあります。

書き忘れてましたが、ここは日蓮宗的には鎌倉に来た日蓮さんが始めて草庵を結んだ所の一つと言われてます。この地の領主が日蓮に帰依し、邸内に小庵を建て寄進したんだって。
さて四天王像と別れをつげ、次の安国論寺を目指す。
…移動しながら地図を見てて気づいたんですが、私、お散歩の順番を間違えてしまいました
空腹で早くお昼にしたいダンナには道順を間違えたのは内緒の方向で



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上行寺へ行ったなら?

2010年04月09日 04時50分27秒 | 鎌倉
八雲神社を後に南下。目指すは次の日蓮さん関連の寺「上行寺」
結構小さい?

つーか、山門は立派なんだけど、その奥に見えるのって…。
これって本堂??
違うよね??
だって、正面に鎮座してるのは、七福神なんだもん~~
アリなのか??
寺なのに…。
そんでもって、敷地内にあったのはコレ。

お稲荷さん。
そんでもって!!こっちの方が流行ってる~~。
あれ??
これ…。聞こえてくるのって読経じゃないの??
そおっとお稲荷さんの堂内を覗きましたらば、まさにお祈りが佳境に入ってました。
マジでお祈りしてる人々を見て、またそお~っと障子を閉める…。
だってここっていわゆる瘡守(かさもり)稲荷なんだもん。得意はガン封じって…。
見なかった!
私は何も見てない~~。

由緒ある日蓮宗のお寺のハズなんですが…。
坊主はお稲荷さんで読経を上げてるし、

境内にはなんだかわからない感じのものがあちこちにあるし??

ところで歴史的には江戸時代の末、江戸城の桜田門外で、井伊直弼が暗殺された有名な桜田門外の変。これって複数の水戸浪士が襲撃したんですが、その実行犯の一人広木松之助が、事件の後ここ上行寺にかくまわれてました。その後彼はこの寺で切腹したんだって。
へえ~~でしょ?
さて、上行寺の所在ですが、実はとてもわかりやすい目印があるんです。

上行寺の前の道路を挟んでお向かいは安養院。北条政子の法名も安養院。5月にはショッキングピングのつつじで有名なあのお寺です。



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八雲神社

2010年04月08日 05時35分31秒 | 鎌倉
常栄寺から南へすぐ。八雲神社がある。
ここは日蓮さんに関係ないが、面白い場所なのでぜひダンナに見せておきたい。
「すぐだから。せっかくだから。ついでだから」と。まるでだだをこねる子どもをなだめるが如く誘う。
あれ~??
以前来て感動した四神の幟を飾っていない…。
どうやらアレってば期間限定だったようで。
でも他にも面白いモノはあるんだよ。
まずコレ。

そんでコレ。

さらにコレ。

中央に写っている器は、東京オリンピックの聖火台を作ったのと同じ人による制作だそうです。
八雲神社は厄除の神社。お守りが各種揃ってます。



ちなみに、この裏から鎌倉のハイキングコースの一つ、祇園山ハイキングコースの出発点となっています。まだここは歩いたことないんだけどね~。
さ。スピードアップして次行ってみよう~。


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日蓮宗の妙本寺

2010年04月06日 05時23分42秒 | 鎌倉
このお寺も今までにも何度か記事にしてる場所なのですが、ダンナに紹介したかったので立寄りました。
というのも、去年の秋松戸市の本土寺に行きまして、ダンナが単独で池上本門寺にも行って来たって言うので、ならば日蓮宗の三長三本の最後の一つ。長興山妙本寺にも行かねば~と思いまして…。

トップ画像ですが「南無妙法蓮華経」とあります。だから「妙法寺」って名前のお寺がやたら多いんだと納得。
これ、日蓮宗の中でキーワードなんですね。今頃知りました。私。

さて訪問したのは3月22日。既に桜がほころんでいました。
ところで、間違えやすいのですが、正面に見えるのは本殿ではありません。ここは祖師堂です。
本殿はこちら。

妙本寺には春が訪れてました。いくつか紹介。
 
カイドウです。
ちなみにこのカイドウの前で女性を巡って対立した中原中也と小林秀雄は和解したそうで。

桜です。

モミジの新芽です。

スミレです。

妙本寺の見取り図発見!
う~ン??
これって…。

前々から場所がわからなくてた蛇苦止堂発見!
妙本寺は源頼朝に仕えていた比企一族が滅亡した場所です。頼朝派だったので、北条氏に嫌われてしまったのです。なのでそもそも妙本寺は比企一族を弔うために作られたんだね。
もう少し詳しい経緯を書きますと、源頼朝は比企一族、比企能員の義母「比企禅尼」を乳母としていたんですね。で、頼朝が伊豆配流時代には彼女からの援助を受けていました。だから彼女の養子である比企能員を特別扱いしてたのです。
で、鎌倉二代将軍となる源頼家はこの地で誕生してます。頼家は能員の妻を乳母とし、能員の娘を側室としてます。となればわかりますね。頼家くんは母の北条政子や北条氏より比企一族の方を頼りにしてました。
さて、ご存知の通り鎌倉2代将軍頼家くんの治世はとても短いんです。で、3代目には頼家くんの弟の実朝が就いてるのですが、ここで比企一族VS北条氏というのが表面化する訳だ。
で、北条氏は比企能員を騙して暗殺。一族は滅亡。というのが歴史上の一連の出来事です。
蛇苦止堂は、源頼家の側室、若狭の局が蛇苦止堂の井戸に身を投げて最後を遂げたのでした。
ちなみに頼家と若狭の局の子一幡(6才で死亡)の袖塚もここにあります。一幡は頼家の長男でした。頼家は一幡に家督を譲ろうとしましたが、比企の乱の時に北条方により刺し殺されてます。
何故にここにこだわったかと言うと、画像の奥にある大木はイチョウでして、イチョウの黄葉する時期は名所なんだって!見取り図ではわかりにくいけど、路地の突き当りにあります。
あ。
うっかりしてましたが、比企一族は日蓮宗の帰依してまして、日蓮亡き後日蓮宗をもり立てた日朗が妙本寺の住職を勤めています。なので、ここ妙本寺は日蓮宗でも最古の寺の一つということに。
………。
そういや、なんか本山とか大本山とか総本山って冠する寺がいくつもある気がする。
日蓮宗ってそういうものなの?
WIKIで調べました。
…日蓮宗ってそういうものらしいです。
へえ~。そうなんだ…。
なんか、水足して量増しをしたお酒みたい~
ハッ
いやいやいやいや
私、宗教批判はしませんから!
宗教怖い。宗教怖い怖い。
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鎌倉の裏鬼門本覚寺

2010年04月05日 05時45分19秒 | 鎌倉
本覚寺は鎌倉駅から近い。
鎌倉幕府があった当時は重要な場所にあった。なにしろ、頼朝が幕府の守護とするべくお堂を建てている。
そして宗教学的には日蓮宗における重要な場所なのだ。
日蓮宗の総本山は山梨県にある身延山なんだけど、ここはそれに対し東身延と呼ばれている。日蓮さんが住んでたこともあるそうで。(日蓮さんがかつて住んだ場所って。鎌倉には結構あちこちにあるんだよ)

私は別に日蓮宗の宗徒ではないけれど、歴史都市鎌倉の観点から鎌倉を歩くと、日蓮宗は避けて通れないんだな。
このお寺も既に記事で書いたことがある
2009年3月6日の記事「本覚寺えびす堂」
ので、今回は別の視点から。

境内には綺麗に春の花が風情のある建物を彩って華を競ってました。
これはレンギョウと本堂。

シダレサクラと日蓮さんのお骨を納めたお堂。
日蓮さんは身延山から戻り、池上本門寺の隣の寺で入滅されてます。
が、お骨は分骨され、ここ本覚寺にも納められてます。お祈りしてる人はいないけどね。大概3月末にはサクラ。1月末には紅梅2009年3月6日の記事「本覚寺の紅梅」がお堂の周りに咲いて私達の目を楽しませてくれるんです。
私的にここのお気に入りは裏手の山門。

今でこそ段葛のある若宮大路が賑わってますが、かつては小町大路の方が賑わってたので、山門、本堂はこっちむきに作られてます。ちなみに、お土産通りは小町通りであって、小町大路とは別の道ですから。
続きまして滑川にかかる夷堂橋を越えて…。


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鎌倉幕府所在地

2010年04月04日 05時20分12秒 | 鎌倉
鎌倉幕府の所在地。実は3カ所ある。初代は源頼朝が開いた大蔵幕府と呼ばれるもの。これは頼朝の墓の真下あたり。現在は小学校のある場所。ちなみに大蔵に幕府が置かれていたのは、1180(治承4年)から1225(嘉禄元年)まで頼朝の屋敷に置かれました。

今回行ったのは、2代目と3代目。
鶴岡八幡宮の裏手へ出てすぐ。
トップ画像の石碑が立っている場所。ここは若宮大路幕府跡です。
若宮大路幕府は順番でいけば3代目にして最後に幕府が移った場所。時代になおすと1236年(嘉禎2年)~1333年(元弘3年)の97年間幕府が所在していました。
執権の北条泰時が移設しました。ちなみに1333年は新田義貞の鎌倉攻めのあった時。これで鎌倉幕府は滅んだのです。

その隣には、現在鎌倉市が管理している大佛次郎茶寮(大佛次郎邸)がある。ここは春と秋に一般公開されてます。

プレートにも書かれてますが、鎌倉は関東大震災により壊滅的な被害を受けています。
なぜなら、ここは震源に近いんですよ。

図の通り、鎌倉と横浜震度7。何しろ関東大震災の震源は相模湾でしたから。
この時、鎌倉にあった寺院仏閣も大被害を受けまして、随分こぶりでチープ感の寺院ばかりな理由が判明しましたね。
大佛次郎邸はそんな鎌倉にあって、現存する数少ない震災前の建物です。黒塀で外からは全く見えないのが残念無念。

さて、ここの路地は細く車が入れません。でも人力車はやってくる~。鎌倉は観光地で、流行の人力車が行き交ってます。

観光客がやってこない路地には、懐古的なお屋敷が残ってます。古い建物探訪の好きな向きには鎌倉は最適だとわかります。まだまだ知られてない(ってゆーか、知らさない今も人が住んでいるお屋敷がわらわらとあるんだよ~)
さて、そんな路地を進むと3つ目の幕府跡が見えてきました。

宇都宮辻子幕府跡です。
鎌倉幕府が2番目に移った場所。年代にすれば1225年(嘉禄元年)~1236年(嘉禎2年)執権北条泰時が移設。
北条政子が亡くなると、源氏三代の政権は終りを告げた。北条泰時は心機一転のために幕府を移転して、京都より藤原頼経を4代将軍に迎えこの宇都宮辻子幕府で元服式を行った。
辻子とは大路を結ぶ小道の意味で、宇都宮辻子は西の若宮大路とその東側の小町大路を結ぶ小路です。
幕府はこの宇都宮辻子の北側にあったと考えられその範囲は東西南北約200メートルの敷地だったと推定。
上の画像の石碑の隣にある宇都宮稲荷は、かつて御所内にあったと伝えられている。また、北条泰時はこの御所の北側に隣接して屋敷をかまえている(以上鎌倉に行く時度々お世話になっている鎌倉★ブログより)
そしてここから一番近いのがここ。

日蓮上人辻説法跡です。

鎌倉時代の幕府の合った所から目と鼻の先にあります。言ってみれば、日蓮さんは国会議事堂の前で、世間的にまだ認められてない新興宗教の話を連日ぶちかましてた訳ですね。
…そりゃあ、法難に何度も会う訳だ。日蓮さんてば、自ら進んで法難に会うように持って言ってたんじゃないか?と勘ぐってしまう場所です。だってここの前の通りは小町大路と言って、かつての大通りにあるんだもん…。
さて移動。
着いたのは、かつての幕府の裏鬼門に当る東身延。本覚寺です。

一応地図で場所を把握してね。
2014年3月19日以下の文章を追加:
えっと~。幕府の所在地を今日のブログのメインに据えたからには、鎌倉幕府は1192(いいくに)作ろう~じゃなかった!ってのももちろんご存知ですよね?去年ダンナとしゃべってて、どうも噛み合ないな~??って思ったら、ダンナは1192作ろう~鎌倉幕府を信じてました!wikiによりますと、鎌倉幕府の成立年は、1180年。1183年。1185年。。1190年。1192年と諸説混在とありますが、2006年頃よりは1185年が採用されてます。では1185年に何があったか?というと、これが動乱の年でして、1185年3月24日に壇ノ浦の戦いに勝利。そこから平氏の残党の追討。11月28日、義経の追捕の為の名目で、守護・地頭の設置を京の朝廷に認めさせる。
12月、天下の草創の主張となってます。
んじゃあ。なぜにこの年この日より鎌倉幕府が始まった!と明確化されないのか?との疑問がありますよね?答えは簡単、どれも頼朝がその事象の場所に立ち会ってなかったから!です。だって、平氏の追討は、有名な一の谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦い。その全て頼朝は戦ってません。つーか、この時頼朝は鎌倉にいました。守護・地頭の設置も実際朝廷に認めさせたのは、北条時政の交渉です。この時も頼朝は鎌倉にいました。自分で戦わず。流れに乗ってったら鎌倉幕府が成立してたのです。だから、この年この日この場より鎌倉幕府が始まった!と決められないのです。って事は、テストに「鎌倉幕府が始まった年はいつか?」という設問は出ない。出せないのだよ。っと、ダンナの知識を修正しました。まあ、いつまでダンナが覚えてるか?謎ですが…。

先月(2014年2月末)、gooブログのアクセス解析が無料サービスで閲覧出来ました。どんなブログ記事がチェックされているか?も上位20位くらいまで確認出来たのです。更に検索キーワードも確認出来ました。と??鎌倉幕府所在地で検索してこの記事に辿りついている方に気付きました。ンで、あれ?「大蔵幕府の地図ってこの記事に貼付けてなかったっけ??」と、今更気付きまして、撮影した携帯画像を遡り、本日、(2014年3月14日)に貼付けました。この手書きの地図は、かつての大蔵幕府の一部が、現在小学校になってまして、小学生の活動で調べたものを、東御門あたりに貼り出してあったのを撮影させていただきました。今も残ってるか?は確認とれてないのですが、よく出来た地図だなあ~と思います。
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鎌倉鶴岡八幡宮

2010年04月02日 06時10分37秒 | 鎌倉
花見にはまだ早い3月に、何しに鎌倉へ出かけたのかと言うと、倒れてしまった御神木の大銀杏の姿を確認する為。ついでに日蓮宗所縁の寺院めぐりなんでした。
お散歩の道順に従って掲載して行きます。昨日は鎌倉駅から段葛を通って鶴岡八幡宮に到着するまで。
今日は鶴岡八幡宮の境内。明日は件の大銀杏の今となってます。
さ~て、と。

昨日掲載したのとは別の花嫁行列を横目に参道を行く。
なかなかの人出です。時間は午前10時くらい。
あれ?

ここは去年流鏑馬をしていた場所ですね。なんだか既に見頃を過ぎた桜がありました。
ソメイヨシノじゃないのかな~?

以前にも何度か鶴岡八幡宮を紹介していますが、まだ紹介していなかった手洗い場です。
神様に合う前に、手を口を綺麗にする場所ですね。

おやや?なんだか見慣れない幟が立ってます。

大銀杏が無事に目を出しますように。
記帳所発見。

記録所で振り返ると、見えてきた。
すっかり様子の変った大銀杏がっ!!
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鎌倉の古い建物

2010年04月01日 06時20分23秒 | 鎌倉
観光地鎌倉。でも裏道を行けば観光客の姿は消える。地元民しか通らない細い道は実は古き良き時代の建物が数多く残っている。それらは現役の日本家屋や和洋折衷家屋や洋館でしかも現役だったりして、なかなか見応えがある。
が、今日は超メジャーな「段葛」から見える古い建物をいくつか紹介します。
撮影日は3月下旬の3連休の最終日、3月22日です。

雪ノ下カトリック教会です。

段葛は源頼朝が奥さんの北条政子の安産祈願で作ったとか。終点の鶴岡八幡宮から海へ一直線に伸びる道にあります。段葛の両側は桜とつつじの並木。その外側は自動車が走ってまして、建物はよく見えますが、横断するには向きません。
上の画像は現在はそば屋かな?

これは土産物屋さんですね。昭和?いや、大正時代に作られた建物かもしれん…。



画像はこれだけですが、趣きのある建物は段葛の両側には他にもいろいろあります。
おや?

3連休の最終日、鶴岡八幡宮では結婚式が行われてました


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江ノ島神社

2010年03月18日 07時03分48秒 | 鎌倉
江の電の江ノ島駅そばの龍口寺から、江ノ島にある江島神社までは実は結構距離がある。
1キロは確実。もう気力で進む。
と!

うおおおおお~~!
富士山じゃ~~~!!!
思えば、朝起きた時は富士山と菜の花のコラボを見たいと思ってたんだよなあ~。
江ノ島からうっすらですが、富士山が見えました
携帯電話ではズームを使用してもこの程度にしか拡大出来なくて残念です。
さて。
江ノ島神社が藤沢七福神めぐりのゴールでありますが、実はもう一つここへ来なければならない目的がありました。
それは、去年の初詣を江島神社へ訪れたことに発します。
「平遥古城」の旅漫画が発行出来ますように。と正月にお参りして、無事発行できたのでそのお礼参りと、合わせて1年間お世話になった健康お守りをお返しせねばならなかったのです。
その記事はこちら江ノ島に初詣2009年1月5日の記事です。
で。

去年は上がれず諦めて江ノ島エスカーを利用して境内へ行ったのを、今年は階段で上がります。
ええ。
ここは一つ。足が痛くとも頑張ります。

途中に面白いモノがありました。
エスカーで登ったら、これはわからないままですね。
でもって、一つ上の画像に見える瑞心門まで階段を登れば終点かと思ったら違ってたんですよ。更に右へ左へ更に上へと3回折れて階段が続いてました。
ええ、後悔しましたとも!
しかし、苦しい先には感動的なモノが待ってたのです。
それがトップ画像の「茅の輪」です。
茅の輪って知ってます?
6月30日の夏越の祓えのお祭りと、年越しの祓えのお祭りに神社によっては登場するものです。
それが、まさか、1月の終りに江ノ島神社でお目にかかれるとはっ!
感動ですっ
茅の輪をくぐる前にしなくてはならないことが…。
ううっ!はずれない~~。お散歩のお供に使用しているバックにお守りをぶら下げてるのですよ。が、は、はずれない…。

四苦八苦して固く括りつけたひもをほどく。
社務所で使用済みのお札やお守りを納める場所を尋ねて…。
すると、「古いお札やお守りを納める場合、1点につき300円の手数料を納めて下さい」と書かれてました。
助かる~~。これ、毎回いくら納めればいいか迷っていたのよ。
はっきり書いてある方が親切だよね。
…お財布に100円玉がありません。
もう一度社務所に引き返し、両替をお願いする。
300円を納めた後「1年間ありがとうございました」とお礼を言ってからお守りを返して終了。
さて。
茅の輪~~。
これ、作法があるんですよね。
確か、8の字を横に倒した形というか、無限大を示す形にくぐって左へ。振り出しに戻って今度は右へ。これを3回繰り返す。
だったハズ。
た、楽しい…。
なぜに茅をくぐってるだけなのに、こないに楽しいんじゃろか?



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瑞泉寺の石庭

2010年01月14日 06時34分11秒 | 鎌倉
トップは瑞泉寺の本堂裏にある庭。
夢窓疎石による岩盤を削って作られた禅宗の庭。書院庭園の起源らしい。
この画像ではわかりませんが、この上は山になってます。かつては色々な建物があったようですが、現在は立ち入り禁止。
訪れた時は調度石庭の大掛かりな手入れの最中でした。
庭の一角に藤棚があって、その下にベンチがありました。
紅葉谷と呼ばれる谷戸を見下ろしつつパンでごはん。
かわええ野鳥が枝から枝へ。
なかなかに楽しい。


 


心行くまで紅葉を写した後さて。
予定では紅葉の名所獅子舞から天園ハイキングコースで建長寺の半僧坊へ。
でも、もう足が…。
実はですねえ。
南足柄の大雄山最乗寺に行った時、階段で2回滑りまして、靴の裏を見たらすっかりすり減っていたので履き慣れた靴を捨てたんですね。
で、新しい靴になったばかりでして….。
もう無理。
今からハイキングは無理無理。
あえなく予定変更をして帰宅することに。
という感じで、2009年の紅葉散歩は終了です。
また来年。

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