昨夜、ジョディ・フォスター主演の2005年の映画『フライト・プラン』をテレビ放映していました。
私はこの映画を大して期待もせずに途中(40分ほど経ったくらい)から観たのですが、案外面白くて最後まで見てしまいました。つまり、途中から見ても理解できるくらいストーリーが単純だったということでもあります。
映画は、飛行中の飛行機から一緒に乗ったはずの主人公カイル(ジュディ・フォスター)の6歳の娘が失踪、彼女が誰の支援も受けられないまま一人娘を探すお話。「娘が失踪した」という彼女を、乗員、乗客誰一人として信じません。「この女性は気が触れているのだ」という皆の思い込みと冷たい視線。飛行機に同乗していたセラピストにセラピーを受けさせられたカイル自身も、一瞬「自分は幻想を見ていたのだろうか?」という気になったりもします。
さて、私が楽しんだこの映画ですが、実はある場面があることもあって日本では評判がよくないようです。
それは、娘を探しまわるカイルが一人のアラブ系の乗客を見て誘拐犯扱いをし、他の乗客もこれに同調してアラブ人を罵る場面があること。そして終盤、まったくの無実なのに名誉毀損や暴力を受けたこのアラブ人乗客がカイルにかばんをとって手渡してあげる場面。
彼女は自分の非礼について詫びることもなければ、かばんの御礼も言うことがないまま映画が終わってしまうのです。それが「人種差別的」ということで、こうした脚本のまま出演したジョディ・フォスターを批判する人さえいました。
さて、私の感想ですが、確かに「無実のアラブ人にせめて、『ありがとう』くらいは言えばよかったのに・・・」とは思いましたが、これを『人種差別的映画』とはまったく思えませんでした。
なぜならこの映画は、「アラブ人というだけで、胡散臭く見る人が多い」という911以降の先入観から、「『娘は絶対飛行機に乗っていた』と主張するのが一人しかいなくて、多勢が『そんな女の子は乗っていなかった』と言えば、実はよく分っていない人も多勢の言うことが真実だと思ってしまう」「一女性の言うことより、警察関係者や、パイロットなどの方を信じる」という人間の無責任さや現実をよく表現していたからです。
カイルがアラブ人乗客に謝らなかったことも、観方によっては、アメリカ政府がアフガンやイラクに対する攻撃について「謝ることがない」のを皮肉っているとも思えますし、この誹謗されたアラブ人乗客が彼女に謝罪を求めるのではなくて親切にかばんを手渡すのも、「アラブ人というだけで人からテロリストのように見られ、誰も理解してくれない辛さを知っている自分が、真実を言っていた彼女を頭から信じなかった。彼女は自分の子供を必死で探していた尊敬すべき女性なのに。」という反省があったからだとも受け取れます。いずれにしても、観客の好感度が高いのはアラブ人乗客のほうになります。
(とはいえ映画のストーリーに大分無理があるのも確かです。まあ、監督や原作者は、人間の弱さや世相の皮肉をあえてデフォルメして描きたかったのかもしれません。・・・ひょっとしてカイルのあの破壊的で無茶な娘の探し方さえも『イラク大量破壊兵器捜査』の皮肉かも・・・。)