2022年に書いたブログ記事に、こう書きました。
オットー・フランクの戦後・ホロコーストの悲劇を利用した人たち - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
抜粋:
第二次世界大戦中、米国がユダヤ人難民受け入れを拒否していましたが、これには、「米国にいるのは改革派ユダヤ人が多いが、ユダヤ人難民を受け入れること、保守派のユダヤ人の数が逆転してしまう(10倍)」と反対していた人たちもいたというのを読んだことがあります。
「ナチスの犠牲となったユダヤ人は、反シオニストだった」ということを言う人もいるようでしたが、いずれにせよも犠牲になったユダヤ人は「正統派、保守派」のユダヤ人が多かったのではないでしょうか?(そしてユダヤ系の共産主義者たちも。)
なのに、むしろ改革派のユダヤ人のなかに、「ホロコーストの被害者ユダヤ人」をアピールする人たちがいます。
そもそも、ユダヤ人の生き残りとして、有名になりメディアにもでるユダヤ人たちは、シオニストの改革派ユダヤ人が主流のよう。
以前書いたのなかで、反シオニストのプリーモ・レーヴィが終身上院議員になることもなかった理由が見えてきた気がします。
ちょうど、先日ユダヤ系イギリス人のジョナサン・グレイザー監督がスピーチで「乗っ取られたホロコースト」という発言をしました。
「この映画は、人間性喪失が最悪の事態に至ることを示している…私たちは今、ユダヤ人であることと、多くの罪のない人々を紛争に巻き込んだ占領により乗っ取られたホロコーストに反論する者としてここに立っている」
と演説した話を書きました。
ジョナサン・グレイザー監督のアカデミー賞スピーチ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
彼の「乗っ取られたホロコースト」の意味が何をさしているかは不明ですが、ただ、第二次世界大戦の「ファシスト」「反ファシスト(ユダヤ系多し)」との闘いは単純ではなく、場合によっては「反ファシスト」の中で敵対していたケースもあったようです。
「自由と正義」は、アドリアーノ・オリベッティやレオーネ・ギンズブルグも入っていた反ファシスト団体「正義と自由」の仲間の一人、バルバラ・アラソン。
彼女のWikipediaには、こう書いてあります。
抜粋google翻訳:
ピエロ・ゴベッティの友人である彼女は、積極的な反ファシストであり、「正義と自由」グループの過激派であった。 多くの陰謀活動の中で、彼は知識人のエルネスト・ロッシの刑務所からの逃亡の失敗に参加しました。 ペチェットにある彼の丘の中腹の別荘は、トリノの反ファシストたちの秘密会議のいつもの拠点でもあった。 1934年にトリノで行われたレオーネ・ギンツブルクの裁判中、彼女はついにOVRAに協力の罪で逮捕された。 尋問中、彼女はレオーネ・ギンズブルグが破壊団体「正義と自由」の指導者の一人であると非難した。 ベニート・ムッソリーニに嘆願書を送った後、彼女は簡単な警告とともに赦免され釈放された。
これが本当であれば、「バルバラはレオーネ・ギンズブルグ(ナタリア・ギンズブルグの夫)をファシストに売った」ということになると思います。
このバルバラ・アラソンの息子は、エンリコ・フェルミの教え子で、研究チームにかかわった物理学者で、武器も開発。戦後はアメリカに移住。
エンリコ・フェルミは「原爆の建設者」と呼ばれた人です。
抜粋:
エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi、1901年9月29日 – 1954年11月28日)は、イタリア、ローマ出身の物理学者。
統計力学、量子力学および原子核物理学の分野で顕著な業績を残しており、中性子による元素の人工転換の実験で新規の放射性同位元素を数多く作った。1938年にノーベル物理学賞を受賞した[1]。また、マンハッタン計画に参画し、世界初の原子炉の運転に成功し、「核時代の建設者」[2]「原子爆弾の建設者」[3]とも呼ばれた。
(中略)
アメリカに移ったフェルミは1939年、コロンビア大学の物理学教授となった。アメリカへの移住直後にフェルミは、オットー・ハーンがドイツで核分裂実験を成功させたと知る。 アメリカでは核分裂反応の研究に従事し、1942年、シカゴ大学で世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させ、原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功した。この原子炉は原子爆弾の材料となるプルトニウム生産を実証するためのものであった。その後もアメリカ合衆国の原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画で中心的な役割を演じ、シカゴ、オークリッジ・サイト、そしてプルトニウム生産を行ったハンフォード・サイトの新たな原子炉建設に関わった。1944年にロスアラモス国立研究所の副所長となり、フェルミの名にちなみF部門と呼ばれた部門を率い、研究・理論を始め多方面で開発を監督した[14]。
反ファシストで、ヴェントテーネ宣言を共同執筆したエウジェニオ・コロー二の叔父のエンリコ・フェルミの初期の研究を手伝い、1950年、ソ連に亡命。
エウジェニオ・コロー二のほうは、1944年5月に、ファシストグループコッホに殺害されました。
トリエステの近現代史-番外編(Eugenio Colorni) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
トリエステの近現代-番外編(ブルーノ・ポンテコルヴォ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
コロー二を殺害したのが、前回も話した『狂った血の女』のもボスが出てくるコッホギャング。
付け加えれば、殺されたコロー二が使っていた偽名「フランク・タンジ」は、ナタリア・ギンズブルグ(旧姓レーヴィ)の母親の苗字と同じでした。
『狂った血の女』という邦題をつけられたイタリア映画 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
アドリアーノ・オリベッティたちが描いた世界-番外編(ナタリア・ギンズブルグへの疑問) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
Lidia Tanzi (1878 - 1957) - Genealogy (geni.com)
参考:
Giustizia e Libertà - Wikipedia
一番下にメンバーの一部が載っています。