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アドリアーノ・オリベッティたちが描いた世界-番外編(ユングとロックフェラーの娘~物理学者)

2024年03月25日 | オリベッティ・反ファシスト

アドリアーノ・オリベッティたちの描いた世界-4(エルネスト・ベルンハルト) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

“The future has an ancient heart“-2(使う人によっては注意が必要な言葉) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アドリアーノ・オリベッティたちが描いた世界-9(反ファシスト~原爆) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アドリアーノ・オリベッティたちが描いた世界-10(ワルド派~ヴェントテーネ宣言~核開発研究所) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

から:

 

ユングもアドリアーノ・オリベッティにかかわっていただろう人物ですが、ユングのスポンサーになっただろう人物が見つかりました。

石油王ジョン・ロックフェラーの四女。

Edith Rockefeller McCormick - Wikipedia

抜粋google翻訳:

1913年、彼女はカール・グスタフ・ユングのうつ病の治療を受けるためにチューリッヒを訪れ、チューリッヒ心理学会に惜しみなく寄付した[8]。 広範な分析と熱心な研究を経て、イーディスはユング派の分析家となり、50 人以上の患者をフルタイムで診療しました。 彼女はアメリカに戻った後も診療を続け、全米から多くの社交界の患者を集めました。 ユングの考えを広めるために、イーディスは彼の著作を英語に翻訳してもらうためにお金を払った[9]。 1918年2月から1919年10月まで、彼女はジェイムズ・ジョイスに毎月の慈善活動を行った

精神分析の運動から離れ一人研究を進め、1916年には石油王ジョン・ロックフェラーの四女イーディス・ロックフェラー・マコーミック(en, 1872年 - 1932年)の助力で「心理学クラブ」を設立して、分析心理学の確立に努める[19]。このクラブには、ヘルマン・ヘッセも訪れている[20]。このマコーミック夫人の縁でジェイムス・ジョイスを知り、『ユリシーズ』の批評も書いている[21]。

(中略)

1923年2月、彼女はツタンカーメン王の妻の生まれ変わりであると主張し、マイナーな報道を受けたが、その墓はちょうど探検され人気の話題となっていた。 彼女は「私はまだ16歳のときにツタンカーメン王と結婚しました。私は彼の最初の妻でした。つい先日、イラスト入りの紙を眺めていると、王の部屋から撤去された椅子の写真を目にしました。」 フラッシュのように、私はその椅子に気づきました。何度も座っていました。」 [16] 彼女はタイム誌で「輪廻転生への私の興味は長年続いている」と述べてフォローした [17]

 

ユングは、のちにエラノス会議を主導します。

エラノス会議 - Wikipedia

エラノス会議(エラノスかいぎ、Eranos)は、宗教学、神話学、深層心理学、神秘主義などをめぐり、東西の研究者が参集して開いた学際的会議の名称である。人間の精神性を中心の問題とし、開催地と主題との関係もあって、カール・グスタフ・ユングの思想と学説(分析心理学)が主導した。 概説 「エラノス」という名前は古典ギリシア語の晩餐会に由来し、これは幾人かの客たちが自前で食べ物を持ってきて、互いに頒ち合い、食卓を囲んで談笑しあう会食を意味する。

1933年にオランダ系イギリス人女性の神秘家・オルガ・フレーベ・カプタイン (Olga Froebe-Kapteyn) によってこのグループが設立された。それ以来スイスのアスコナ近くのマッジョーレ湖岸にある彼女が私有する屋敷で毎年会議が開催された。60年以上の間、このイベントは異なる知の領域からなるざまな思想家たちが人間の精神に関するさまざまな事柄を討議するための接点として貢献した。 各々の大会は8日にわたって行われるが、その間、すべての参加者は食事、睡眠、生活をともにすることによって、議論の雰囲気は促進され、相互理解が深まる。

毎年、新しいテーマに取り組み、各々の思想家が主題についての2時間の講義を行い、このアイデアの晩餐会への彼(女)の貢献によって、参加している多種多様な思想家は生産的で知的な談話に移っていく。 エラノス会議の起源 Froebe-Kapteynは、著名なドイツの宗教史研究家ルドルフ・オットーの提案によりこのグループを設立した。

Froebe-Kapteynは、円卓会議のオランダの愛好家であり、初期には、スピリチュアリストがこの会議の発足に関係していた。エラノスは精神の起源の問題に関心があった。最初のテーマ『東と西のヨガと瞑想』は、1930年代初期において実際に先駆的なテーマであった。エラノスはその設立初期において本質的にカール・ユングの思想と関連するようになった。ユングはエラノスの正規参加者だったので、彼の神話の元型の概念はエラノスの基礎理論となった。

エラノス会議に参加をしていたかどうかは不明ですが、ユングと共同研究をしていた物理学者がいました。

 

 

ヴォルフガング・パウリ - Wikipedia

ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(Wolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。

生涯

パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]。

(中略)

離婚後間もない1931年初め、ニュートリノの仮説を提唱する直前に、パウリは深刻な精神的不調に悩まされた。彼は精神科医・心理学者で、パウリと同じくチューリッヒ近郊に住んでいたカール・グスタフ・ユングの診察を受けた[2]。パウリはすぐに自分の「元型夢」の解釈を始めるようになり、難解な心理学者ユングの最高の生徒となった。間もなく彼は、ユング理論の認識論について科学的な批評を行なうようになり、ユングの思想、特にシンクロニシティの概念についての説明を与えた。これらについて二人が行なった議論はパウリ=ユング書簡として記録されており、Atom and Archetype(『原子と元型』)というタイトルで出版されている。

(中略)

パウリの論文「ケプラーの科学的理論構築に与えた元型的イデアの影響」にて、彼のプラトンやピタゴラス的な世界観をC・G・ユングと共に記しており、それは彼の友人であり物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクの著書『限界を超えて』の第3章に要約されている[3]。 ハイゼンベルクによれば、体験したデータから自然法則が引き出せるという純粋な経験主義ではなく、感覚的知覚と概念、もしくは「感覚的知覚とイデア」を結びつけるものを探し、それをユングの元型の論の中に見出していて、元型のようにイメージが先行しているという見解の源流は哲学者プラトンの思想である[3]。西洋思想では、19世紀の科学が客観的な物質的世界を生み出したが、東西を問わず古くから、多様性を超越して一体性を体験しようとする神秘主義があり、この二極が相補的であることを認める必要があるとした[3]。

(後略)

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