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トリエステの近現代史-14(AGIP創設とジョパンニ・アニエッリとジョゼッペ・ウォルビ)

2023年01月10日 | オリベッティと反ファシスト

トリエステの近現代史-13(ムッソリーニとMI6とフィリッポ・ナルディ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

のフィリッポ・ナルディ(妻はロシア系ユダヤ人)は、第一次大戦はムッソリーニ、ファシストのスポンサーを集め、第二次世界大戦で反ファシストになったようです。

北イタリア(トリノ、ミラノ、トリエステ近郊)のユダヤ系、非ユダヤ系企業家には同様の動きを取る人達が目立ちます。

トリノではフィアットのジョパンニ・アニエッリ。

第80回:フィアット帝国の光と影 世界を志向したドメスティック企業 - webCG

(前略)

トリノで創業し、イタリアに帝国を築く

フィアットという名称は、Fabbrica Italiana Automobili Torinoの略で、直訳すれば「トリノのイタリア自動車製造所」ということになる。1899年7月1日、トリノのブリケザリオ伯爵家に集まった9人の名士が自動車会社設立の書類に署名したことが、すべての始まりだった。

養蚕業を営んでいたジョバンニ・アニエッリもメンバーのひとりである。彼はフィアット社の株を3%所有していたにすぎなかったが、自動車事業に対する考え方は他の8人に比べてはるかに意欲的だった。アニエッリは参加するにあたり、「将来の展望の上に立って、真剣に会社運営を行う」よう注文をつけた。多くのメンバーが自動車をつくってレースに参加したいという程度の考えだったのに対し、彼はヨーロッパを席巻しているフランスの自動車会社に打ち勝つことを目指していたのだ。

事業が始まると、アニエッリが先頭に立って計画を推し進める。工場建設に適した土地を自ら探し、設備を買収して自動車生産を始めた。レースで勝利を重ねてフィアットの評判を高め、1902年にアニエッリは代表権を持つ取締役に就任する。1906年にはフィアット社を一度解散して資本金900万リラで新たに会社を興すという荒業を使い、経営権を完全に掌握した。

その直後にイタリアは深刻な不況に陥り、粉飾決算のスキャンダルなどもあって倒産の危機に見舞われる。しかし、アニエッリには運があった。1914年から始まった第1次世界大戦が、莫大(ばくだい)な利益をもたらしたのだ。軍用自動車や兵器を製造し、飛行機や船舶の生産にも手を伸ばした。さらに製鉄業や電気、保険や銀行にも業務を広げ、フィアット帝国とも呼ぶべき一大コングロマリットを築き上げていく。

戦災を乗り越えて規模を拡大

前途は順風満帆と思われたが、フィアットは政治の波に飲み込まれることになる。イタリアではファシスト党が勢力を伸ばしており、ムッソリーニが権力を握りつつあった。1920年代は、フィアットとムッソリーニがそれぞれの利益のために手を結んだ時代だった。フォードはイタリアに工場を建設することをもくろんでいたが、アニエッリはムッソリーニに働きかけて進出を阻止。フィアットはファシスト政権の保護を受けて、自動車生産を飛躍的に伸ばし、重工業部門でも巨大な力を蓄えた。

アニエッリは最終的にファシスト党員になるが、彼自身はムッソリーニに政治的共感を寄せていたわけではないらしい。彼の興味は、会社を存続させ、拡大することにあった。実際、ムッソリーニの意向に沿わない事業も行っており、1939年にはフランスに2000台の軍用トラックを輸出。イギリスには飛行機のエンジンを売り、ハンガリーやスペインに戦闘機を供給した。まだ戦争は始まっていなかったとはいえ(イタリアの宣戦布告は1940年6月である)、敵となる可能性の高い国に武器を輸出したことになる。

また、戦争末期に枢軸国側の敗色が濃厚になると、フィアットは将来を見据えて周到な作戦をとった。当時のフィアットはドイツの支配下で兵器を生産していたが、実際に出来上がった製品の数は、工場の生産能力をはるかに下回っていた。一方でひそかにパルチザン活動を支援し、連合軍と接触を持った。ドイツ軍に面従腹背で接し、解放の日を待ったのである。作戦は功を奏し、アニエッリは対独協力者として非難されることを免れた。フィアットも企業として存続することが認められる。計画の成就を見届けたアニエッリは、1945年12月に79年の生涯を閉じた。

(後略)

トリエステ側では、ジュゼッペ・ヴォルビなど。

イタリアの世界遺産ヴィラ・バルバーロとジュゼッペ・ヴォルピ-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

フィリッポ・ナルディ、ジョパンニ・アニエッリ、ジョゼッペ・ヴォルビは、パルチザンであったエンリコ・マッテイ

エンリコ・マッテイ - Wikipedia

が率いることになるAGIP(後のENI)創設にかかわっていました。

Agip - Wikipedia

(前略)

1924 年、米国の石油会社であるシンクレア オイルとイタリアの国民経済省は、エミリアロマーニャ州とシチリア島の 40,000 km² の地域で石油を探索するための 50 年間の合弁事業契約を結びました。 資本の 40% は同省が保有し、すべての支出は Sinclair Oil が負担し、利益の 25% はイタリアの省に行きました。 Giacomo Matteotti と Don Sturzo が率いる政治的野党は、合弁事業が国に損害を与えていると主張し、汚職の疑いにつながる論争を開始しました。 マッテオッティは、この問題について演説する予定の 2 日前に実際に殺害されました。

ドン・スターゾは論争を続け、公開会社は国のエネルギーの独立性を維持する唯一の方法であると述べた. イタリアの石炭は不足しており、質も悪かった[3]。 それは、イタリアの貿易収支と限られた産業成長を圧迫する価格で海外から輸入されました。 発電所はあまり開発されておらず、主に国の北部に集中していたため、エネルギーのニーズを満たすことができませんでした。 会社の定款とアジエンダム法 1926 年 4 月 3 日の勅令により、イタリア王国政府は、石油産業に関連するすべての活動を行うための合資会社である Azienda Generale Italiana Petroli (AGIP) を設立しました。 株式資本の 60% は財務省、20% は Istituto Nazionale Assicurazioni (INA)、残りの 20% はイタリアの社会保険基金が保有していました。

初代社長は、電力部門の請負業者であるエットーレ・コンティでした[4]。 会社の設立は、多くのアナリストによって、財務省のジュゼッペ・ヴォルピ・ディ・ミスラータと国家経済省のジュゼッペ・ベルッツォによるものでした。 しかし、ヴォルピ・ディ・ミスラータは石油関連の利益に直接関与し、ジョヴァンニ・アニェッリの FIAT と協力し、エミリア・ロマーニャで石油の探索に失敗した Banca Commerciale Italiana の財政的支援を受けました。 1927 年に鉱業法が制定され、下層土の所有権が州に与えられ、石油関連の活動は政府の認可および/または助成金の対象となるという規則が課されました。

Agip は 1929 年の恐慌の後で困難を経験しましたが、1930 年代に繁栄し始めました。 1933 年に、保護主義的な製油所を抑制し、Agip がこの分野でより容易に操業できるようにする新しい法律が発行されました。 初期段階と開発 Agip は Fiume に精製施設を持っていましたが、1936 年には Volpi di Misurata が所有する Porto Marghera の精製所を買収しました。

モンテカティーニと合弁会社の Anic (Fuel Hydrogenation National Company) を設立することに合意した直後、褐炭の水素化による燃料の導出を追求することになりました。 Anic は、Agip の子会社である Azienda Italiana Petroli Albanesi (AIPA) からアルバニアで抽出された石油を処理するために 2 つの製油所を建設しました。

しかし、アルバニア産の油は品質が悪く、その加工は経済的ではないことが判明しました。 しかし同時に、植民地作戦を支援するための費用のために、アギプは外国からの投資、特にイラクでの探査作戦をやめなければなりませんでした。 リビアで石油を発見したのは探検家のアルディト・デシオであり、1939 年にはいわゆる「ペトロリビア作戦」が行われました。アギプは、その前年に合成燃料のイタリア企業を設立した FIAT と連携して、 合成化学からガソリンを得る可能性。

フィリッポ・ナルディの名は出てきませんが、彼のイタリア語版ウィキペディア

Filippo Naldi - Wikipedia

にこう書いてあったので、彼がAGIP創設にかかわったのは確かだろうと思います。

「フランス滞在中、ナルディはいくつかの重要な石油会社を経営し[45]、1920年代前半に得た経験をうまく活用し、米国の有名な石油大手(スタンダード・オイル)の高官と協力した。ムッソリーニ政府の役人[31][48]の助けを借りて、イタリアのいくつかの重要な油田の開発に成功した[49]。 イタリアへの帰還 第二次世界大戦は 1939 年以来フランスを巻き込みました。

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