Various Topics 2

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ペリエ家-4(ペリエ家とフランス革命・ブルジョワジーとオルレアニスト)

2023年05月31日 | ペリエ家とオルレアニスム

クロード・ペリエは間違いなく、オルレアニストで、フランス革命の立役者の一人だったと思います。

ペリエ家-1(クロード・二コラ・ペリエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

こちらは、Château de Vizの英語版wikipediaのURLです。(なぜかリンクが生きていない。)

https://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/e/2e88b6176a25c843e65d26c64025cc49

Château de Vizille - Wikipedia

ここから抜粋をGoogle翻訳:

1780年、ヴィルロワ公ガブリエル・ルイ・ド・ヌフヴィルはヴィジル城とその周辺地域をクロード・ペリエに約1025万4000リーヴルで売却した。 約10年後、クロードはシャトーで400人以上の労働者にプリント綿を製造させました。 この建物は、フランス革命の初期において重要な役割を果たすことになります[1]。

1788 年 5 月、国王ルイ 16 世は、グルノーブルのドーフィネ議会の権限の大きさに境界を設けることを決定しました。 議会はこの決定にどれほど不満があるかを公然と表明し、1788年6月7日、彼らは一堂に会することを許可されなかった。 そのお返しとして、グルノーブルの住民は屋根から王の衛兵隊に瓦を投げつけた。 このイベントは、グルノーブルでは「タイルの日」または「タイルの日」として知られています。

7月、クロード・ペリエは周囲の自由主義者の考えに触発され、聖職者、貴族、第三身分の代表者を招待し、グルノーブルでは以前は禁止されていた会議をジュ・ド・ジュ・ドの部屋に集めた。 城のポーム。 その日、クロード・ペリエ主催の晩餐会には500人近くの男たちが集まった。 出席者には、教会員、実業家、医師、公証人、市職員、弁護士、土地貴族を含む多くの「著名人」がいた。 このイベントはヴィジールの集会として知られています。

この会議で要求されたのは、第三身分が二重の代表を持ち、投票が命令ではなく頭で行われる、パリでの身分総監の召集である。 この会議はフランス革命の最初の部分を示しました。 また、このおかげで、クロード ペリエと彼の家族のほとんどは、フランス革命の困難な時期を危害なく過ごすことができました[2]。

 

オルレアニススムについては日本語版ウィキペディアより。

(フランス革命以降は革命や戦争、必要以上の「社会主義者=悪」と言う刷り込みも、オルレアニストがずっと権力を握っているからではないか、と思えてきます。リンクから全文ご覧ください。)

オルレアニスム - Wikipedia

オルレアニスムまたはオルレアン王朝主義(フランス語:Orléanisme)は、フランス革命期に起源を持つ、フランスの右翼ないし中道右派の派閥による政治運動。オルレアニスムの名称は、派閥の指導者であるブルボン王家の分枝オルレアン家に由来する。オルレアニスムは1789年に起きた革命の指導者たちが追求した「人間の権利」と、君主制の原則とのつり合いのとれた立憲君主主義を政治目標とし、この政治的妥協を進める人々の擁護者となったオルレアン家の公爵たちをフランス王として支持した。オルレアニスム運動は1870年の第三共和政成立後しばらくすると、分裂する形で消滅した。この派閥に属する者はオルレアニスト(Orléaniste)と呼ばれた。フランスの歴史家ルネ・レーモンの分析によれば、オルレアニストはレジティミスト、ボナパルティストとともに、フランス右翼の3つの派閥の一つである。

フランス革命期から第一帝政期(1789年 - 1814年)
ルイ14世の甥として生まれ、フランス王国の摂政を務めたオルレアン公フィリップ2世は、サン=シモン公爵(フランス語版)によれば、(少なくとも気を許した者たちとの集まりや談義の中で)自分がイギリスの自由や立憲君主制に惹きつけられている、と常日頃から発言していたとされる。フランス革命の初期、その曾孫で国王ルイ16世とその妃を毛嫌いしていたオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフは、自然とリベラル王党派の代弁者を引き受けることになった。

(中略)

オルレアニストの第1世代は、大革命の混乱に圧倒されることになった。ルイ・フィリップ・ジョゼフは、第一共和政の下で「フィリップ・エガリテ」(Philippe Égalité、「平等な」フィリップ)と名乗り、ルイ16世の処刑に賛成票を投じたが、自身も1793年にはギロチンにかけられた。しかし歴史家アルベール・ソレルによれば、オルレアニストはこの痛手を乗り越えて第一帝政期を生き延び、ルイ18世とシャルル10世の下で復活した正統王朝を倒した自由主義の復権の中で、歴史の表舞台に戻ることになるのである。

ブルボン復古王政期(1814年 - 1830年)

ブルボン王家による統治が1814年に復活すると、自由主義者たちはオルレアニスト陣営に入り、新体制の熱烈な支持者であるレジティミスト、そしてボナパルティストと対立した。彼らから見れば、ボナパルティスムも「民主主義を掲げる独裁主義」に過ぎず、一人の専制君主による支配に他ならなかったのである。当時、革命時代のフランス人が政治的自由よりもずっと大事だと考えていた、法の下での平等と社会生活上の平等は確保されたとされ、人々は次に獲得すべきは政治的自由だと信じていた。オルレアニストたちの考えでは、オルレアン公が理想的な政府の下で自分たちに政治的自由を保障してくれると思われた。

オルレアニスト陣営に加わった自由主義者たちの指導層には、文筆業や実業の世界で著名な人物たちが多かった。フランソワ・ギゾー、アドルフ・ティエール、ド・ブロイ公アシール・シャルル・レオン・ヴィクトルとその息子ジャック・ヴィクトル・アルベール、銀行家ジャック・ラフィットなどである。

1830年の7月革命でブルボン家の嫡系が王位を失うと、オルレアニストたちはそこにつけ込み、まんまとオルレアン公ルイ・フィリップ3世を国王に推戴した。

(中略)

7月王政期(1830年 - 1848年)

オルレアニストたちは「神意」に基づく王権という考えを嫌う反面、民主主義をも恐れていた。独裁主義への反転やボナパルティスムへの回帰を引き起こすと確信していたのである。オルレアニストは中産階級の代表者が拠る議会を基盤とした立憲君主政体を採用するイギリスの自由主義政府を理想と考えていた。彼らは絶対君主主義と民主主義の「中庸」(juste-milieu、ジュスト・ミリュー)を追求していた。オルレアニスト政府はフランスにおけるイギリスの中産層選挙民に相当する「法定人口」(pays legal)は25万人程度と決め(実際の有権者は17万人程度)、この枠内から漏れた圧倒的大多数の人々は「事実上は国家を代表している」とした。ギゾーはこの原則を断固たる厳密さをもって解釈し、国政に適用した。

オルレアニストによる7月王政は完全に中産階級のためだけの政治を展開したため、「法定人口」から漏れた大多数の国民は、政府を特権階級の集まりと判断した。政治から排除された国民たちは政府を攻撃しようとはしなかったが、オルレアニスト政府に魅力を感じることはなくなり、貴族政治や昔の王政と変わらないと考えていた。

第二共和政期から第二帝政期(1848年 - 1870年)

1848年革命が起きたのは、それぞれに個性の強すぎる王子や政治家たちによる政権運営が行きづまったことも一部にはあったが、主には18年もの間オルレアン派によって権力から遠ざけられていた、「法定人口」から外れた人々の不満が原因であった。オルレアニストは第二共和政(1848年 - 1852年)と第二帝政(1852年 - 1870年)の間、自派閥に属する人々の富と才能のおかげで、きわだった社会的、文学的威信を保つことが出来た。彼らはアカデミー・フランセーズで影響力をふるい、『両世界評論』誌や『ジュルナル・デ・デバ』紙といった報道の世界で才能を発揮した。

第二共和政に引き続いて成立した第二帝政の時代、オルレアニストは無尽蔵ともいえる巧妙さと機転とを使って政府に対する慎重な反対活動を行った。彼らは政府に対する冷たい沈黙や無視を続け、そして帝国は外国や旧体制の人々から非難を受けていると断じる歴史研究を発表したりして、ナポレオン3世を苦しめ続けた。しかし、オルレアニストたちはパリの文芸サークルの外、殊に地方ではほとんど支持を受けていなかった。

 

ここに出てくる、「サン・シモン公爵」は、サンシモン主義を掲げたアンリの親戚です。

アンリ・ド・サン=シモン - Wikipedia

「サンシモン主義者(信者)・銀行家」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

そして、フランソワ・ギゾーは、シュルンベルジェ兄弟の先祖。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー - Wikipedia

「ブランド」と「芸術品」と「職人技」-8(シュルンベルジェ兄弟の母の曽祖父フランソワ・ギゾー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

参考:

18世紀フランスのフリーメイソングランドマスターだったオルレアン公はどのような人物だったか - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

屋根瓦の日 - Wikipedia

ブルジョワジー - Wikipedia

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