「ペリエ」と言って、まず思い浮かべるのは、ミネラルウォーターの「ペリエ」。
「Périer家」 と「Perrier家」はスペルを変えることも珍しくなかっただろう欧州では同根なのではないか、と思うんですが、このミネラルウォーターの泉を買い取ったという、「ルイ・ペリエ」のペリエのスペルはクロードやジャック&オーギュスト・ペリエの「Périer(アクサンテギュ抜きで英語風にPerierと書いたりします。)」と違い、「Perrier」。
Perrier Name Meaning, Family History, Family Crest & Coats of Arms (houseofnames.com)
アクサンテギュとは?フランス語の綴り字記号とアクセントを解説 [フランス語] All About
Google翻訳:
ペリエ (/ˈpɛrieɪ/ PERR-ee-ay、米国: /ˌpɛriˈeɪ/ -AY、フランス語: [pɛʁje]) は、ガール県にあるヴェルジェーズの水源で採れるナチュラルボトル入りミネラルウォーターのフランスのブランドです。 ペリエは炭酸と特徴的な緑色のボトルで知られています。
ペリエはペリエ ヴィッテル グループ SA の一員でしたが、1992 年にネスレが同社を買収した後、ネスレ ウォーターズ フランスとなりました。[2] ネスレ ウォーターズ フランスには、ヴィッテル、サンペレグリノ、コントレックスも含まれます。
(中略)
歴史
ペリエのモデルとなった南フランスの泉は、もともと Les Bouillens (泡) として知られていました。 ローマ時代から温泉として利用されていた[7]。 紀元前218年、ハンニバルとその軍隊はローマ征服に向かう途中でスペインを通過し、レ・ブイヨンでしばらく休むことにし、そこで兵士たちは飲み物を求めて水を汲んだ[8]。
ペリエは 1863 年に初めてイギリスに紹介されました [9]。 地元の医師ルイ ペリエ( Louis Perrier)が 1898 年にこの泉を購入し、そこで商業スパを運営しました。 彼は水をボトルに詰めて販売した。 その後、彼はその泉を英国の裕福な訪問者であるセント・ジョン・ハームズワースに売却した。 ハームズワースは新聞王ノースクリフ卿とロザミア卿の弟でした。 彼は言語を学ぶためにフランスに来ました。 ペリエ博士は彼にそのスプリングを見せ、彼はそれを購入することに決めました。 彼は資金を集めるために家族新聞の持ち分を売却した。 スパが時代遅れになったため、ハームズワースはスパを閉鎖しました。 彼は源泉をペリエと改名し、水を特徴的な緑色のボトルに詰め始めました。 その形状はハームズワースが練習に使用していたインディアンクラブの形状であった[7][10]。
ハームズワースは、フランスらしさが中流階級にとってシックで憧れの的であると見なされていた時代に、この製品をイギリスで販売しました。 ミネラルウォーターのシャンパンとして宣伝されていました。 (ローラン ペリエとペリエ ジュエという名前のシャンパン ハウスがありますが、関係はありません。) デイリー メールなどの新聞に広告を掲載し、ブランドを確立しました。 一時期は売上の95%が英国と米国で占められていた。
1990年に米国ノースカロライナ州の研究所で複数のボトルから発がん性物質であるベンゼンが発見され、ペリエ社の純度に対する評判は打撃を受けた。 ペリエ社は、これは作業員が濾過ミスをしたという個別の事件であり、泉自体は汚染されていなかったと述べた。 この事件は最終的に、約1億6,000万本のペリエ製品が世界中で回収されることになった[11][12]。
2年後の1992年、ペリエ社は世界有数の食品・飲料会社の一つであるネスレに買収された[13]。 ネスレは事業の所有権をめぐってアニェッリ家との競争と戦わなければならなかった[14]。
(後略)
ペリエ社は、「ネスレ」(&ロレアル)と「アニエッリ」を調べていた時に出てきていたのですが、源泉がどこにあるかは知らぬままでした。
ランドック地方にあったのですね。
紀元前218年から、一気に19世紀に飛ぶ泉の歴史。
誰が、泉を「ルイ・ペリエ」に売ったのでしょうか?
追記:
ルイ・ペリエの前の持ち主は、「アルフォンス・ガルニエ」で、彼がスパを飲料として売り出したのが先のようです。
ペリエ – :南フランス産の炭酸入りナチュラルミネラルウォーター (perrier.jp)
ランドックがらみでオマケ: