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ジョン・スタインベックのお祖父さんと『怒りの葡萄』

2022年09月12日 | 人物

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で、スターンバーク卿の名Sternburgを知って、「『怒りの葡萄』のJohn Steinbeckはひょっとしてユダヤ系だったのだろうか?」と疑問がわきした。

ユダヤ系に限らず、移民した人たちは、名字や名前をその国風に書いたり読ませたりすることもあるし、特にユダヤ系の人たちでは、改名することもあったようです。もっとも移民するまで苗字がなかった移民もいたでしょう。

ハンガリー系ユダヤ人だったSternburgと米国カリフォルニア移民のSteinbeckー

ジョン・スタインベック - Wikipedia

抜粋:

ジョン・アーンスト(アーネスト)・スタインベック(John Ernst Steinbeck, 1902年2月27日 - 1968年12月20日)は、アメリカの小説家・劇作家。

スタインベックは「アメリカ文学の巨人」と呼ばれていた。また、スタインベックの多くの作品は西洋文学の古典と考えられている。

また、生涯で27冊の本を出版している。その中には16冊の小説と、6冊のノンフィクション、2冊の短編集が含まれている。

ピューリッツァー賞を受賞した代表作『怒りの葡萄』は75年に渡って売れ続け、1400万冊が販売されている。

スタインベックの作品の多くはカリフォルニア州中部が舞台となり、中でもサリナス峡谷やコースト・レーンジズ山脈は頻繁に登場する。

1962年にノーベル文学賞を受賞した。

生い立ち
スタインベックは1902年2月27日、カリフォルニア州モントレー郡サリナスで生まれた。姉2人、妹1人の長男だった。サリーナス高等学校を卒業、幼い頃からドストエフスキー『罪と罰』、ミルトン『失楽園』、マロリー『アーサー王の死』[1]などを読み耽る文学好きの少年であり、学級委員も務めていた。

スタインベックの祖父は多くの農地を所持したドイツ系移民で、父はドイツ系2世の出納吏でもあった。母はアイルランド系の小学校の教師でスタインベックの読み書きの能力を育てた。

スタインベック家は元々「Großsteinbeck」という苗字だったが、祖父がアメリカに移民した際に「Steinbeck」と短縮した。ドイツに残る一族の農地は、いまだに「Großsteinbeck」と呼ばれている。

スタインベックは後年、不可知論者になるが幼少期は米国聖公会に所属していた。

スタインベックはドイツ出身で、名字は短縮していました。

 

ドイツから移民したのは、スタインベックのお祖父さん。このお祖父さんは、パレスチナ(イスラエル)のユダヤ人をキリスト教に改宗させる役目を負っていたようでした。このレポートだけでは正しいことはわかりませんが、スタインベック家は改宗ユダヤ人の家系であった可能性があるのではないか、と思えます。

下のものは、ギリシャの大学のウェブサイトからです。

Project MUSE - John Steinbeck's Roots in Nineteenth-Century Palestine (jhu.edu)

Google 翻訳:

19 世紀半ば、ジョン・エルンスト・スタインベック (1902-1968) の祖父であるヨハン・アドルフ・グロスシュタインベック (1832-1913) が聖地に到着しました。彼は、パレスチナのユダヤ人が農業に従事するように訓練し、それによってキリスト教徒の救世主の出現を早めるために、農業居住地を確立したいと考えていました。

数年後、ジョン・スタインベックの祖父の兄弟が殺され、祖母の妹と母親がレイプされ、入植者の持ち物がすべて略奪された一夜の恐怖で、入植地は完全に一掃されました。 この下劣な行為は全国に反響し、外国籍の人々に不安感と運命的な不安を引き起こしました。一握りの忠実なプロテスタント信者は、終わりの日、キリスト教徒の救世主の再臨、そして彼の千年の治世の始まりの差し迫った到来に対する彼らの千年の期待によって、この地域に魅了されていました.

ユダヤ人のパレスチナへの帰還とキリスト教への改宗は、ミレニアムを実現するための前提条件であると考えられていました。入植者たちは、イエス キリストの再臨を期待して、農業入植地の設立とユダヤ人の農作業への関与をキリスト再臨への近道と考えました。 オスマン帝国の支配下でパレスチナを解決しようとするキリスト教徒の試みは、19 世紀半ばに導入された改革によって可能になりました。これらの改革は、キリスト教の農業集落が徐々に日常的な問題になるまで、外国勢力が国に浸透し始めるプロセスを加速させた. しかし、グロススタインベック農場はその種の最初のものであり、したがって特筆に値します。

この反抗的なドイツのキリスト教プロテスタント グループは、合衆国からの別のグループと合流し、どちらも 1849 年末に向けてパレスチナに向けて出発しました。どちらのグループも最初は同じ場所に住んでいましたが、最終的にはヤッファ市の北東に農業農場の入植地を設立しました。この地域の中心には、アメリカ人がマウント ホープと呼ぶことを選んだ丘があり、現在はテルアビブ市の境界内にある教育機関があります。

決済 バルメン=ヴッパータール近くのエルバーフェルト(現在のドイツ西部)からパレスチナに移住したドイツ人のグループには、ヨハン・グロスシュタインベック、彼の兄弟であるフリードリッヒ・ヴィルヘルム・グロスシュタインベック(1821-1858)、姉妹のマリア・カタリーナ(1826-1862)、彼女の夫、グスタフ・ティール (1825-1907) と他の 2 つの家族。

1850 年 11 月 28 日に書かれた手紙の中で、フリードリヒは彼らの出発と聖地への航海を取り巻く状況を次のように説明しています。

「私たちは、ほぼ一年前[1849年]、イスラエルの回復と主の再臨について、私たちと同じ信仰を持っている多くの兄弟がいるプロイセンのライン州からこの国に来ました....私たちは来ました結論として、資金を調達し、最初の2人の議員をパレスチナに送り、家族と一緒に住むことが可能かどうかを確認します。

残念なことに、興味を持った同胞のほとんどは、ここ数年、畑の収穫の失敗や戦争などに苦しんでいた農民や機械工でした。そのため、お金が不足していました。さて、大義が遅れて苦しむことがないように、そしてアラブ人の間で平和に暮らし、私たちの家族に十分なパンを手に入れることが実際に可能であるかどうかをすぐに知るために、私たちはすぐに結論を出しました[End Page 48]。私たちの家族と一緒にそこに行きます。私たちの最愛の父は私たち一人一人に数百ドルを与え、私たちの人々から多くの祝福を受けた後、私たちはバルメンから鉄道で11月29日、[18]49日に彼らを去りました.私たちが去ったとき、私たちは 10 人、男性 5 人、女性 2 人、子供 3 人でした。」

『怒りの葡萄』は、当時小学5~6年に一緒に下校していた友人Cちゃんに勧められて読もうと思った本でしたが、途中で脱落。

(私にはCちゃん、それに加えてNちゃんと言うそれこそIQも精神年齢も高い友人がいて、この二人は児童向けでない本を読んでいました。『ベルサイユのばら』がはやれば、Cちゃんに勧められるままにツヴァイクの『マリーアントワネット』を読み・・そこまでは良いけど、CちゃんとNちゃんの興味がフランス革命からロベスピエールに移っていくと私はついていけず。)

『怒りの葡萄』は、米国が舞台ですが、案外祖父のパレスチナでのエピソードも加わっていたりするのでしょうか。

怒りの葡萄 - Wikipedia

 

なお、80年代後半に私は友人たちと、モントレー、カーメルに行きましたが、その時サリナスにも少し寄りました。スタインベックが反日本人移民だったと聞いたのも、そのころだったかー(人種差別というより、「仕事を奪う安い労力の日本人」「米国の敵」と言う意味だと思う。)

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