Various Topics 2

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※旧Various Topics(OCN)

「ユダヤ人と歴史のタブー」の代償-3

2022年10月21日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

独ソ不可侵条約のことは前回「おいておいて」と書きましたが、これも習った歴史通りなのか私はよくわからないのです。

独ソ不可侵条約 - Wikipedia

Molotov–Ribbentrop Pact negotiations - Wikipedia

 

ロバート・ロスチャイルドは何者か?義父はレジナルド・ドラックス卿と007 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に書いた、ロバート・ロスチャイルドの義理の父親レジナルド・ドラックス卿は独ソ不可侵条約交渉のとき、権利を持たない英国代表としてモスクワに行きました。

連合国側は赤軍政府にポーランドのガリシアとヴィルノ渓谷以外、ポーランドとルーマニアの通過を認めていますが、この代表団はスターリンに猜疑心を持たせたようです。

Reginald Drax - Wikipedia

抜粋:

He was the British half of the Anglo-French delegation sent to Moscow in August 1939[1] alongside Aime Doumenc to discuss a possible alliance with the USSR with Soviet War Minister Kliment Voroshilov. As an indication of the low priority the Allied governments put on the mission, it was sent by sea aboard the outdated merchant ship City of Exeter on a slow voyage to Leningrad. The Soviets did not take the delegation seriously because Drax did not have any power to make decisions without the approval of the British government, rendering him next to powerless. Furthermore, although the Allied governments were willing to grant the Red Army transit rights through Poland and Romania they were unwilling to allow them to enter Polish Galicia and the Vilno Gap.[10] Joseph Stalin told his foreign minister Vyacheslav Molotov "They're not being serious. These people can't have the proper authority. London and Paris are playing poker again." The British government also ignored advice to send an officer of equivalent rank as Edmund Ironside, who had been sent on a similar mission to meet Polish Marshal Edward Rydz-Śmigły in Warsaw.[10]

Google翻訳:

彼は、1939 年 8 月 [1] にエーメ・ドゥーメンクと共にモスクワに派遣された英仏代表団の英国側の半分であり、ソ連との同盟の可能性についてソビエト戦争大臣のクリメント・ヴォロシロフと話し合った。連合国政府が任務に置いた優先度が低いことを示すものとして、それは時代遅れの商船シティ オブ エクセターに乗ってレニングラードへのゆっくりした航海で海上で送られました。ソ連は、ドラックスが英国政府の承認なしに決定を下す権限を持たず、彼をほぼ無力にしたため、代表団を真剣に受け止めませんでした。さらに、連合国政府は赤軍にポーランドとルーマニアを通過する通過権を認めたが、ポーランドのガリシアとヴィルノ峡谷への進入を許可しなかった[10]。ヨシフ・スターリンは外務大臣のヴャチェスラフ・モロトフに、「彼らは真剣に取り組んでいない。彼らは適切な権限を持つことができない。ロンドンとパリは再びポーカーをしている」と語った。英国政府はまた、ワルシャワでポーランド元帥エドワード・リズ=シミグウィに会うために同様の任務で派遣されたエドマンド・アイアンサイドと同等の階級の将校を派遣するという助言を無視した [10] 。

(なお、フランス代表のエーメ・ドゥーメンクは、1948年に自殺。)

こうしてドイツのポーランド侵攻となりますが、英国にもこのいい加減さの責任はなかったのでしょうか?

当時、英国はポーランド側にいるようではありましたが、ポーランド軍部はあまり好ましい存在ではなかったと思います。

そういう疑問が出てきても、調べることはできません。

欧州とユダヤ人-4(ナチスドイツとレヒとポーランドのユゼフ・ピウルスキ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の中で抜粋させてもらったウィキペディアをもう一度。

レヒ - Wikipedia

前略)

パレスチナからイギリスの支配と移民の制限を廃し、ユダヤ人国家を建設することを目標とした組織であり、イギリス当局からは創設者の名前を取って『シュテルン・ギャング』と呼ばれる。初期はイスラエル国家軍事機関と呼ばれていたが、指導者アブラハム・シュルテンの死後、レヒと改名している

(中略)

レヒは3つの主な目標を定めた。

パレスチナの解放のためイギリス当局との戦いに参加する意思のある者を集める。
唯一のユダヤの軍事機関として世界に認知される。
聖書に基づくイスラエルの地を軍隊の力で奪い返す

(中略)

レヒの戦闘員の多くは専門の訓練を受けており、一部にはベニート・ムッソリーニのファシズム政府が運営するチヴィタヴェッキアの軍人養成学校に参加していたメンバーもいた[14]。

第二次世界大戦が始まる前の1938年から1939年にかけて、レヒのメンバーの一部はポーランド軍の指導の下、ヴォウィーニ(波: Wołyń)のゾフュフカ(波: Zofiówka)や、ウッチ(波: Łódź)近郊のポデンビン(波: Podębin)、アンドリフフ(波: Andrychów)周辺の森で、軍事訓練を行い、爆薬の使い方を学んだ。彼らのうちの一人は後にこう語っている。

「ポーランド人はテロリズムを科学として扱っていました。我々はコンクリート、鉄、木、レンガ、あるいは土でできた建物を破壊するための数理を用いた法則を習得していました[14]。」

その後、ポーランド政府はレヒのメンバーに20,000丁以上の銃をひそかに持たせ、ポーランドの空路と海路を使ってパレスチナへ向かうことを許可した。

グループの黎明期は失敗が続いた。犯罪行為で資金を集める初期の試みは、1940年のテルアヴィヴでの銀行強盗や、1942年1月9日の強盗ではユダヤ人通行人2人を死亡させ、組織の一時的な壊滅をもたらした。さらに、ロードでイギリス秘密警察の上層を暗殺する作戦は、3人の警察官(うち2人がユダヤ人、1人がイギリス人)が死亡することとなり、イギリス当局とユダヤ中央機関による地下組織を一掃するための協力体制を生み出す結果となった[15] 。

イギリス当局はシュテルンのグループをテロリスト組織と見なし、イギリス情報局保安部(MI5)の植民地支部である防衛警備局(Defence Security Office)に、その指導者を探し出すよう指示した。そして1942年、拘束されたシュテルンは帝国防衛委員(Committee of Imperial Defence)のジェフリー・モートン警部に射殺された[16]。また、他のメンバーの逮捕によりグループはいったん消滅しかけるが、指導者のうちの二人であるイツハク・シャミルとエリヤフ・ギラディ(後にレヒのメンバーに暗殺される。理由は現在も不明とされる。)が、すでに脱獄していたナタン(フリードマン)・イェリン=モル(ヘブライ: נתן ילין-מור)とイスラエル・エルダド(イスラエル・シャイブ、ヘブライ: ישראל אלדד)の助けによって脱走し、組織を再興させた[17]。

後のイスラエル首相となるシャミルは「マイケル」のコードネームで知られた。この名は彼の尊敬する人物たちの一人、マイケル・コリンズから取られた。レヒはウリ・ツヴィ・グリンベルグ(英: Uri Zvi Greenberg、ヘブライ: אורי צבי גרינברג)やイスラエル・エルダードらを精神的、哲学的指導者とした。レヒは委任統治時代に存在したどの武装グループよりもはるかに小規模で、支持者も決して多くはなかったため、他の多くのユダヤ人からも見下されていた。ギラディの暗殺後、組織はエルダド、シャミル、イェン=モルをリーダーとする三頭体制となった。

レヒは反帝国主義の非社会主義的思想を採用していた。彼らはイギリス委任統治が続くことを委任統治の一般的な条項に違反するとみなし、ユダヤ移民の制約については国際法の有り余る侵害とみなした。しかし、彼らは裏切り者と断じたユダヤ人も標的にし、イギリス委任統治の終わり頃にはデイル・ヤシーン事件などのアラブ人を狙った作戦にハガナーやイルグンとともに参加した。

ナハマン・ベン=イェフダ(ヘブライ大学の元社会学部、人類学部学長)の著書によると、レヒは合計42件の暗殺事件に関わっており、これは同時期のイルグンやハガナーの起こした事件を合わせた数の2倍以上になる。この中でベン=イェフダが政治的と分類した暗殺での被害者は、半数以上がユダヤ人だった[18]。

(中略)

1940年、レヒは第二次世界大戦でナチス・ドイツ側に立って干渉することを提案する。それはドイツがイギリスをパレスチナから追放する見返りに、ヨーロッパのユダヤ人の『移住』を手助けするというものだった。1940年の末、レヒの代表者Naftali Lubenchikはドイツの外交官ヴェルナー・オット・フォン・ヘンティヒ(Werner Otto von Hentig)に会うため、ベイルートを訪れ、ヘンティヒにレヒはまだその実力を発揮しておらず、その気になれば反英運動の全範囲を組織化することも出来ると語った。

(中略)

レヒのメンバーの総員は数百人に満たなかったものの、社会革命党(エスエル党)やポーランド社会党戦闘団(the Combat Organization of the Polish Socialist Party、ユゼフ・ピウスツキがロシア帝国に対抗するため組織した準軍事組織)など、ロシア帝国時代のグループや[23]、1920年代のアイルランド共和軍(IRA)の、南アイルランドからイギリスを追い出すことに成功したゲリラ戦術を参考に、彼らは自国にその思想を伝えるため小規模ながらも大胆な行動を行った。それゆえに、レヒは小規模な作戦としてイギリス兵や警察官、ユダヤ人『協力者』の暗殺を行った。他の計略として1947年にはイギリスの政治家に郵便物として爆弾を送りつけることや、また、橋や鉄道や製油場などのインフラストラクチャーを狙った破壊活動も行われた。レヒは活動資金を得るため個人の寄付を募ったり、ゆすりや銀行強盗を行うこともあった。

(後略)

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