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Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

貞明天皇とエスペランティスト-柳原白蓮~出口王仁三郎

2019年05月18日 | 社会(歴史・都市計画含む)

前回の記事で、エスペランティストについて触れましたが、エスペラントを日本に大々的に広めたのは、出口王仁三郎。

ウィキペディア
出口王仁三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E 

大正の白蓮事件で、この出口王仁三郎が匿ったという柳原白蓮は、大正天皇の生母(明治天皇の側室)の柳原愛子(なるこ)の姪です。 

王任三郎が白蓮をかくまったのは、駆け落ち相手の宮崎龍介の父親(宮崎 滔天)のつてではなかっただろうか・・・とは思いつつも、年齢が近い、貞明皇后(1884年生まれ)と柳原白蓮(1885年生まれ)、白蓮を通じて出口王任三郎氏の話、教義や思想、活動、、エスペラント、バハイ教等々の話を聞いて、間接的とはいえ影響を受けていた、ということはないでしょうか? 

白蓮事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 柳原白蓮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E6%84%9B%E5%AD%90

 柳原愛子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E6%84%9B%E5%AD%90

 宮崎 滔天
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E6%84%9B%E5%AD%90

 (偶然なのでしょうが、令和天皇、徳仁(なるひと)は、柳原愛子(なるこ)と「なる」で共通。令和天皇と雅子皇后の子は「愛子」様。おもしろいです。) 

貞明皇后がエスペランティスト、もしくはエスペラントに興味があったかどうかも、エスペランティストとの関係が、大正天皇の誕生日が祝日にならなかった理由であったかどうかも、根拠があることではなく、あくまで私が建てた仮説です。 

しかし、エスペランティストたち(バハイ教徒、大本関係者も)が、大正期から現代にいたるまで日本に大きな影響を与えてきているのではないかと思いますので、追っていきたいと思います。

こちら、興味がある方はどうぞ。(リンクから全文どうぞ。) 

旭川合気道
第一次大本事件

https://asahikawaaikido.jimdo.com/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6/ 

日本政府は「国家神道」と食い違う神話解釈を行い、メディアを通じて信者数を拡大し、陸海軍や上流階級まで影響力を持つようになった大本に危機感を覚えた。 

さらに浅野たちが黙示録的な予言をメディアで全国に宣伝したため国内は騒然、当局の懸念はますます強くなった。 

内務省が公式に警告を発し、王仁三郎も警察に呼び出されて注意を受けている。  教典『大本神諭(火の巻)』は不敬と判断され発禁になった。  
陸・海軍大臣は軍内における大本信者の一掃を通達している。 

原敬首相も1920年(大正9年)10月の日記で大本への不快感を記した。
政府上層部だけでなく、多くの文化人・知識人・宗教界・既存メディアも大本を非難。 

政府は元信者が大本を「皇室の尊厳を冒涜した」「王仁三郎は陰謀家だ」「日本神話に勝手な解釈を加えた」などと告発したのをきっかけに、1921年(大正10年)2月12日に不敬罪・新聞紙法違反として弾圧を加えた(第一次大本事件 )。 

(中略) 

1927年(昭和2年)5月17日、大正天皇崩御により控訴審は終結したが、内務省は大本を壊滅させる機会を伺っていた。 

(中略) 

一連の事件と『霊界物語』の教義化により、浅野、谷口、友清歓真をはじめ多くの幹部と信者が教団を去った。 

王仁三郎は娘婿の出口日出麿と出口宇知麿を新たな幹部として重用していく。 

また活動拠点を綾部から亀岡へ移し、綾部は祭祀本部、亀岡は宣教本部と定義した。 

ここにもなお(厳霊、日、火、天照大神)と王仁三郎(瑞霊、月、水、スサノオ)の二重構造と「型の反復」という大本の構図が見られる。 

この他にもさまざまな活動を行った。日本コロンビアは大本の人気を見込んで王仁三郎のアルバムを9枚発売した。 

柳原白蓮(大正天皇の従兄妹)が離婚スキャンダルに巻き込まれた際、王仁三郎は頼ってきた白蓮を綾部にかくまい、黒龍会の内田良平と対立している。 

1922年(大正11年)3月、全国が結成されると初代委員長南梅吉を尋ねて激励し、財政的支援も行った。 

1923年(大正12年)にはローマ字を取り入れ、またバハイ教の布教師フィンチやルートまたロシアの作家ヴァスィリー・エロシェンコとの交流を機に国際語エスペラントの教団活動への導入を始めた。 

1918年(大正7年)に欧州から帰国した陸軍将校秦真次が王仁三郎に語ったのが最初ともいわれる。 

後の満州国建国に際して石原莞爾と連携し、大本がエスペラントを満州に広めるという計画もあったが実現しなかった。 

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