『風と共に去りぬ』は映画と小説で全然違う…原作を読んだあと、映画史上に燦然と輝く傑作を見て感じる「物足りなさ」のワケ(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
(前略)
小説と映画の「大きな違い」
『風と共に去りぬ』は、大衆小説である。
しかもかなり少女漫画チックで、ロマンス小説だととらえられている部分も大きい。
だから、古典の名作という評価がなされていない、らしい。
翻訳者がそう書いている。
トルストイや、ドストエフスキー、ディケンズなどと並び称されることがあまりない。
それらはいわば「小説の世紀」19世紀に書かれた小説らしい小説で、それに比べて『風と共に去りぬ』はヘミングウェイやフィッツジェラルド、スタインペッグなどの時代、「欧州の大戦のあと」に書かれた小説だからだ。
ロストジェネレーション、つまり「だらしがなくってどうしようもない世代」が書いた小説という扱いなのだ。
(中略)
映画が有名だ。
小説を読んだ後に映画を見た人が驚いたこと
写真:現代ビジネス
小説を読むと、1861年から1868年の激動のアメリカの現場にいつづけた感覚になる。
読んでいて、ひょっとしてうまくいくと南軍は北軍のヤンキーどもをやっつけられるんではないか、とその時代のエネルギーが感じられるのだ。
でも映画は、冷静である。客観的描写が目立つ。南北戦争が始まると、これは南部がやがて負けるのだから、という前提で話が進んでいく。まあ、実際に負けるから、間違ってないのだけれど、これはかなり物足りない。
小説では、南北戦争がいままさに始まる話として読めるのだ。そこが圧倒的におもしろい。
(後略)
『風と共に去りぬ』の文学としての評価が低いのは、「北軍」がヒーローではなく、敵(悪者)として描かれていることと、「白人と黒人」の描き方を嫌がる人達(人種差別者から、南部の人たちが「黒人」を搾取の構図が好きな人まで様々な人達)がいたのが、最大の理由ではないかと、私は思っています。
『風と共に去りぬ』の映画の一番残念なところは、個人的には小説では出てくるウィル・ベンティン(Will Benteen)をださなかったこと。
私は中学の時、TVでこの映画を観、その直後の小説を読んで、20年くらいいたって原語で映画をフルで観ました。
それなので、映画に対する「物足りなさ」を感じることはなかったんですが、常に、「この小説の評価」には納得していませんでした。
『風と共に去りぬ』は、マーガレット・ミッチェルの伝記も読むと面白いと思います。
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なお、私が読んだ『風と共に去りぬ』は、これに書いた大久保康雄氏の翻訳したものだったかもしれません。