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Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ヴィクトール・フランクルとプリーモ・レーヴィ、アウシュビッツと原発

2012年10月22日 | 人物

知人からメールが入り、彼女はそのなかでプリーモ・レーヴィについて語ってくれました。

(※ブログへの転載の許可を取ろうと連絡をすると、「講演会の引用に記憶違いや、間違った解釈があるかもしれない」と言いながら、快諾してくれました。感謝!)

「(前略)

プリーモ・レーヴィについてのコメントを興味深く拝見しました。

実は、丁度一昨年の10月に立命館大学でプリーモ・レーヴィ展があり、大掛かりな展示ではなかったのですが、とても心に残りました。同様によく比較されるヴィクトール・フランクルに私はとても興味があったので、プリーモ・レーヴィ展に付随する二つの記念講演会にも行ってきました。ひとつは竹山博英氏の「プリーモ・レーヴィーアウシュヴィッツを考え抜くこと」もうひとつは鵜飼哲氏の「人間であることの恥ふたたびー2011年の経験から」という講演でした。

竹山氏はプリーモ・レーヴィの年譜を追って行くことで、彼の最期を考える講演でした。私が覚えているのは、プリーモ・レーヴィの人生に残した5つの要素です。1 仲間内の粛清 2 ヴァンダ・マエストロ 3 溺れるもの 4 一般犯罪者やユダヤ人管理者に支配される収容所での体験 5 (合成ゴムの管理者ハンヴィツ博士に)プリーモ・レーヴィは有用な物とみなされたこと

彼が生き残った条件は偶然の重なり合いだったわけですが、そこで生きる意味を見いだします。しかし「悪に手をそめたものがよけい生き残っている。つまり、最良の人間は死んでしまった。自分は人を押しのけて生きているのではないか」という感情は生涯彼につきまとっていたようです。

鵜飼氏は人間の恥という観点から、昨年の福島の「原発が地方の構造的低開発を条件に建設され、社会的差別を条件に稼働し、潜在的被害者がそれなしには生計がたたない状況に追い込まれ、共犯関係に巻き込まれていること」という逃れられない点でアウシュビッツと対比しました。

プリーモ・レーヴィに関しては「レーヴィが彼自身の要求を文字通りに考えているなら、彼は絶望させられるだけである。明らかに彼はバーを高く上げすぎた(トドロフ)」を引用しました。

(後略)」

この知人への返事に、私は、

Hさんが「彼が生き残った条件は偶然の重なり合いだったわけですが、そこで生きる意味を見いだします。しかし「悪に手をそめたものがよけい生き残っている。つまり、最良の人間は死んでしまった。自分は人を押しのけて生きているのではないか」という感情は生涯彼につきまとっていたようです。」とおっしゃっているように、レーヴィにこうした罪悪感が生涯付きまとったのは確かであると私も思います。(だから収容所での体験はレーヴィの悪夢となり、彼を襲い続けました。)

が、実のところこれ自体を彼は『パルチザンの仲間の処刑』ほど嫌悪は感じていなかったのではないか、と私は思います。

なぜなら、この『偶然』はレーヴィにはどうしようもなかったことであるのに対し(ただし、収容所内で、レーヴィはひょっとしたら他の人から食べ物を盗む等の行為をしてしまったことは、あったかもしれないですね。生きるためにそれは当時はあたりまえの行為で、レーヴィはそれを恥とは思ったけれど、一歩客観的になることができたように思います。)、パルチザンの件は、彼が直接処刑を実行したわけでもなく支持をしたわけでもないけれど、レーヴィは処刑に間接的に関わってしまったわけですから。」

と書きました。(一部編集)

とはいえ、私はレーヴィの作品、関連本を最近再び読み出しただけであり、彼のことを研究しているわけではないので、これはもう想像でしかありません。

また、ユダヤ系オーストリア人ヴィクトール・フランクルについても、私は彼の『夜と霧』を中学の頃に読んだ記憶があるものの、(当時はこの本の深さを理解できなかったのか、)さほど印象に残っていません。だからこう書くのは二人や研究者に失礼ですが、私にはフランクルもレーヴィも、彼らがアウシュビッツの体験を書き綴ったのは、「生き残った者としての使命感」からだと思えます。

レーヴィに「他者を押しのけて生き残ってしまった罪悪感」があったのなら、「使命感」を持つまでの気力も起こりえなかったと思えるので、余計レーヴィの言葉を文字通り受け取ることもないのではないかと思えてしまいます。

さて、話はHさんの話してくれた鵜飼氏の福島とアウシュビッツの対比に移りますが、私は以前、『Cagotと、フランスと日本』

http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20110928

のなかで、日本の原発が建設された場所とと呼ばれる集落の関係を書きました。

こうしたにできた原発を知る人はわずかでしょうし、また、今回の福島事故現場の第一線で働く従事者がとてもではないけど人権が守られていると言えない人たちがいること(生きていくために身売りしたり、だまされたりしたような人たち)を大手メディアが報じても、未だに知っている、興味を持つ人はさほど多くないと思います。

原発が電気を多く使う東京ではなく、地方に作るようにできる構造なども、311以降あぶりだされました(地方は原発でも建てないと雇用が生まれない)が、どれだけの人がこれをひっくるめて原発と関連付けて考えるのか。

原発従事者ではなくても、現在まだ汚染が残る地区で暮らさざるを得ない人々を差別する人たちもいる日本。

レーヴィは収容所から帰還する途中、ドイツの一般人を目にしながら「彼らは何が起こっていたのか知っているのだろうか。知らなければ、知る必要がある」と心のなかで呟きましたが、「ドイツ人の多くが収容所で起こっていたことを知っていたら歴史が変わったと確信すること」は、残念ながらなかったのではないかという気がします。

ただ、それでもドイツ人に知らせる(同時に世界に広める)意義、それで何かを変えられるという希望はあったでしょう。

311以降、フランクルの『夜と霧』がよく読まれるようになったと聞きました。

これが読まれるようになったのは、収容されていたユダヤ人が極限状態にあるときの人間性というものと、震災、津波、原発事故の被災者のそれを重ねる部分があって、ということのようです。

フランクルの次はレーヴィの本も読まれるようになったら、よいなと思います。

コメント
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