Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

トリノの作家、プリーモ・レーヴィが残した宿題

2012年10月17日 | 人物

トリノは興味深い二人の人物の出身地でもあります。

一人はフィアット、オリベッティの経営、アリタリア創設に携わり、ローマクラブ創設者となった、アウレリオ・ペッチェイ。もう一人は、ユダヤ人で作家、科学者のプリーモ・レーヴィ。

(ローマクラブのウィキペディア:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96

ペッチェイは1908年生まれでレーヴィは1919年生まれですが、ともにトリノ大学で学び、第二次世界大戦ではレジスタンス運動の闘士でした。ペッチェイは1944年の捕まり、投獄。レーヴィは1943年12月にファシスト軍に捕らえられ、収容所送りになっています。

戦後はペッチェイは実業界で活躍。レーヴィは化学者として働きながら、作家活動、そして収容所体験を若い人たちに語り継ぎ、ペッチェイは1984年に原因不明のヘリコプター事故で亡くなり、レーヴィは1987年に自殺(事故説もあり)で亡くなっています。

この二人の経歴は似ているだけではなく、戦後は正反対の生き方をしたとはいえ、彼らが“人類に対して宿題を残していった”と言う意味では、同じであったのだと思います。

さて、このペッチェイ氏のほうは、日本語の文献があまり見つからないのですが(日本では某大物宗教家が彼と親しかったようで共著も出しているようですが、これがかえってマイナスイメージを作りだしたり、ペッチェイやローマクラブ自体を陰謀論で捉えている人もいるようで、残念。)、プリーモ・レーヴィのほうは、著作が翻訳されていたり、彼を研究している人も多くいます。

日本語の文献は少ないもののペッチェイのことを知っていた私、レーヴィについて、実のところはるか昔に彼の本を一冊読み、その後NHKで放映された彼の軌跡をたどる番組を見ただけで、今回のトリノ旅行から帰ってくるまでは彼がトリノ出身だということは、意識していませんでした。

しかし、旅行から帰ってきて、トリノ出身のユダヤ人を調べるきっかけがあり、そのなかにプリーモ・レーヴィの名前を発見。

そして今回の旅行前、たまたま図書館で中身も見ないまま作家の名前で選んで借りていた本のなかに彼の本、および彼について書かれた本があり、思わずとびついてしまいました。

さて、先ほど私は、「彼らが“人類に対して宿題を残していった”」と書きましたが、レーヴィが残した宿題、それは「人類が二度と無益な争い、戦争を起こさない道を探す」ということだと思います。

トリノは歴史的にユダヤ人の差別が少ない町でしたが、戦争前後には、それが一変してしまいます。今まで親しくしていた非ユダヤ系の友人や教授がよそよそしくなり、宗教にあまり熱心でないレーヴィも自分がユダヤ人であるということを思い知ることになります。

しかし、そんな中でも、戦前と全く変わりなく接してくれる友人や助教授もおり、レーヴィはそうした仲間とともに、レジスタンス活動に入ることになりますが(潜入先が私が今回足を伸ばしたアオスタ!激戦地だったようで、市庁舎の前で兵士等の慰霊碑がありました。)、今度はその部隊のなかで、規則に従わなかったり、略奪等の行為を行った二名を部隊が処刑することになり、これはレーヴィの心の傷となります。

そして、1943年12月、レジスタンスにスパイが紛れ込んでいて、レーヴィもつかまり、イタリアの収容所に送られ、そこからアウシュビッツに送られてしまいます。

死と隣り合わせの収容所での直接収容所の収容者を酷い目に合わせたのは同胞、まるで人間を見ているような視線を向けないナチスの高官、収容所から解放された後の自分を見るポーランド人の同情ではなくて下げずむ視線、本来自分が“選別”されたであろうに、手違いでガス室送りになった収容者、素朴で暖かかったロシア人、自分に食料を与え、何の見返りも求めなかった、民間イタリア人(収容所内)労働者・・・・どんなときも人間を観察し続けたレーヴィ。戦中戦後も「ナチスドイツが何故ここまで非人間的なことができるのだろうか」と問い続けながら、一方で「戦争をヒトラーだけの責任しているようであれば、また同じ戦争が起こる」と危惧。

戦後も、トリノを初め、各地の高校などで、アウシュビッツの体験の講演会にも出かけ(これが自分を非常に消耗させるのに・・・)、米国にも呼ばれますが、イスラエルがパレスチナでしていることを批判して、米国保守派ユダヤ人のみならず、本国のユダヤ人からも阻害感を味あわされることもあったようです。

また、「ホロコーストは作り事」という意見を公の場で言う人たちにも反論をしてきましたが、政治的発言や、闘争を好まなかった彼のやりきれなさは計り知れません。

(戦後の学校での講演会でも、「収容所から逃げられたはずだ」という右派の生徒の声や、元ファシストの校長なども、彼は同じ思いをしたと思います。)

いつも控えめ、穏やかだったレーヴィは3階(日本式だと4階)の窓から落ちて亡くなりました。これは遺書がなかったものの、1メートル弱の手すりがあって、事故とは考えづらいこと、レーヴィが実母、義母の看病と自身が鬱病にかかっていたことから、突発的な自殺だろうと言われています。(そして私もそう思います。)

このレーヴィの自殺について、生涯戦争で追った心の傷も原因となったでしょうし、他にも、私は彼が友人や仕事にはめぐまれていたにも関わらず「自分の居場所・目的を失ってしまった」と感じたせいではないか、と思っています。(「戦い」を好まなかったレーヴィがレジスタンス活動に身を投じたのも、その仲間こそが自身の仲間と感じられた人たちだったからではないかと思います。)

そしてまた歴史を学ばない人類に対しての絶望感もあったに違いない、とも思えます。

コメント
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