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新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

「御即位記念地図1万分1地形図『東京中心部』」を飾った

2020-02-18 19:07:50 | 日記・エッセイ・コラム

こちらの記事に書いた「御即位記念地図1万分1地形図『東京中心部』」

これをパネルに入れて、今はガバァと空いている別邸の自室の壁に飾ったら、イイ感じかもしれない… と、迷わず購入(税込 1,379円)しました。

だったのですが、四六判(しろくばん:1091mm×788mm)という、印刷物としては特殊なサイズなためか、既製品のフレーム(額)が見つかりませんでした。
もうちょいデカいA0 (1189mm×841mm)とかB0 (1414mm×1000mm)なら普通に買えるのですが…

結局、高くつくことにはなるけれど、このサイズでフレームを特注することに決め、某社に発注しました。

構想から1カ月発注から1週間強を要して、ついに本日、届きました

そして、悪戦苦闘しながら、フレームに地図を収め、そして、ベッド脇の壁に掲出

おぉ、イイじゃありませんか

そう、そう、去年11月末竣工した新国立競技場は、この地図ではどうなっているかといいますと、

点線&グレーひしゃげたドーナツ状のものが描かれ、

国立競技場(建設中)

と素っ気ない…

この地図は「令和元年5月現在」だそうで、このタイミングなら、新国立競技場はその偉容を露わにしていたはずなのにね…

制作者の国土地理院に取材したこちらのサイトの記事によると、国土地理院基本図情報部基本図課長の藤本一彦さん曰く、

最新の状態をアップデートしていくスマホの地図に対し、紙の地図は『東京が令和元年、どんな状態だったのか』という記録を残す役割がある

だそうです。
しかもこの「御即位記念地図1万分1地形図『東京中心部』」は、ただの紙の地図ではなく、「天皇陛下御即位時の首都・東京の姿を地図として後世に残す」ことを目的としているわけで、今上天皇陛下即位礼正殿の儀が行われた2019年10月22日時点で竣工していなかった新国立競技場が「建設中」と表記されるのは当然のことかもしれません。

あと、「こちらのサイトの記事」には、なぜ縮尺が地形図としては一般的な2万5千分の1ではなく1万分の1なのか、なぜ東京スカイツリー入れなかったのか

など、なかなか面白い情報が載っています。

ところで、この地図をぼぉ~っ と眺めると、

東京の中心部には、ところどころに広大緑地があることがわかります。

皇居別格として、明治神宮&代々木公園とか、赤坂御用地とか、新宿御苑とか、浜離宮恩賜庭園とか…(恩賜上野公園はその大部分がこの地図の埒外)

これらは、江戸幕府の御用地(皇居、浜離宮恩賜公園)、野原(明治神宮&代々木公園)、大名屋敷(赤坂御用地:紀州徳川家上屋敷、新宿御苑:高遠藩邸)と出自(?)は様々ながら、代々木公園(元練兵場:私の叔父が徴兵中に事故死した地 その前は大名/旗本らの下屋敷)を除いて、皇室の所有(管理)を経ていることが共通点になっています。

それにしても、現在の東京には、前記の緑地だけでなく、掘割なども併せて「江戸」面影が残っているところがホント、面白い

結構なお金がかかったけれど、フレームを誂えて良かったと思っています。

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2020年最初の関西旅行記 #4-4

2020-02-18 13:52:26 | 旅行記/美術館・博物館・アート

「2020年最初の関西旅行記 #4-3」のつづきです。

私、蓮華王院三十三間堂後白河院の発願で建てられたこと、その地域を呑み込むように、豊臣秀吉方広寺大仏殿を建てたことは知っていましたが、「#4-2」で書いた法住寺殿のことや、これから参観しようとしている養源院のことは、まったく知りませんでした

養源院は通りから引っ込んだ場所に、ひとけもなく、ひっそりと佇んでいました。

伯父・織田信長に滅ぼされた父・浅井長政(戒名:養源院天英宗清)の菩提を弔うため、豊臣家・淀殿が創建し(1594年)、まもなく焼失した後、淀殿の妹の徳川家・崇源院ことが再建(1621年)した養源院、寺院幕の三つ葉葵が鮮やかです。

養源院の拝観は、数名のグループが、お寺さんの説明を聞きながら巡る方式なのですが、私が玄関に入ったときは、だ~れもいない状況でした。
と、思ったら、3~4名の女性グループがやってきて、その方たちと一緒に、養源院を案内していただけることになりました。

まず玄関に面して、さっそく、

出たぁ~ 俵屋宗達の杉戸絵「唐獅子図」です

あぁ、これかぁ~ TVで観たことがあります
この作品は、養源院の杉戸絵だったのか

と、不勉強ゆえ 思いがけない出会いでした

そして、鶯張りの廊下を歩くと、突き当たりにあったのが、

出たぁ~ 俵屋宗達の杉戸絵「白象図」です

そして、ふり返ると、玄関に面した杉戸のこちら側、つまり「唐獅子図」の裏側は、これまた俵屋宗達の、

杉戸絵「波と麒麟図」
描かれている動物は、麒麟ではなく「水犀(すいさい)という霊獣らしい(甲羅を背負っている)のですが、波と麒麟の組み合わせは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、紋所にちなんだが描かれた板絵を背景に座る斎藤利政(道三)と、その前に控える明智十兵衛(光秀)を連想します…

それはさておき、縦181cm×横125cm×2枚の杉戸いっぱいに描かれている白象、唐獅子、麒麟、どれもまったく写実的ではないけれど、その迫力たるや

そして、白象と麒麟の右側、唐獅子の左側の板戸は「上から下へ、反対側は「下から上への構図にしてあるなんて、さすが宗達 で、デザイン性に溢れています。

上の杉戸絵の画像は、小冊子「養源院と障壁画 宗達・狩野派・昭乗」から拝借したものなんですが、この小冊子によると、崇源院(江)が養源院を再建した際、障壁画は幕府御用絵師集団だった狩野派に発注されたものの(そりゃ崇源院は2代将軍秀忠御台所[みだいどころ=正室]ですから…)、狩野派はあちこちからの注文に追われて、遅々として作業が進まない
ここで「養源院と障壁画」から引用しますと、

そのことに危機感をもった開山・成伯(浅井長政の従弟で比叡山の僧)は、崇源院を通じて浅井家ゆかりの尾形光琳の祖父や桃山時代の大文化人だった本阿弥光悦を動かし、絵師として評価の高まっていた俵屋宗達に残りの障壁画を依頼しました。それまで大きな障壁画を制作したことのなかった宗達とその工房の人たちは、狩野派とは異なる大胆な試みをし、「松図」や杉戸絵「白象図」「唐獅子図」「犀図」などを完成させました。

だそうです。「犀図」というのは「波と麒麟図」のことでしょうな
また、この解説文の中にでてくる「尾形光琳の祖父」というのは、恐らく尾形宗伯で、その本阿弥光悦の姉だといいますから、「尾形光琳の祖父」と本阿弥光悦とは、甥=伯父の関係になります。

   

ちょっとここで狩野派の「松」宗達の「松」を見比べてみましょ。

まず、狩野派による二条城二の丸御殿大広間四の間「松鷹図」

一方の、養源院にある宗達の「松図」

どちらも大画面いっぱいが枝を伸ばしている重厚感たっぷりの作品ですけど、宗達の「松図」は、重厚感がありつつも、松の葉の群れ「流れ」というか「リズム」を生みだしていて、矛盾があるけど、軽快感も併せもっている感じです。

どちらが好み? と聞かれれば、そりゃ琳派好きの私ですから、宗達の「松図」に軍配を上げます

というところで、一息 入れます。

つづき:2020/02/19 2020年最初の関西旅行記 #4-5

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