新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

2020年最初の関西旅行記 #4-5

2020-02-19 23:13:55 | 旅行記

「2020年最初の関西旅行記 #4-4」のつづきです。

「#3-4」平等院養林庵書院のことを書き、その最後に、

この「伏見城の戦い」と伏見城の遺構は、この翌日、ひょんなことから「再見」することになる のですが、この時は、そんなことは知るよしもなかった私でした。

と書きましたが、その「『伏見城の戦い』と伏見城の遺構」というのが、この、立て札に誘われてふらっと参観した養源院でした。

養源院は、淀殿が創建して(1594年)間もなく焼失し、淀殿の妹・崇源院が再建(1621年)したことは「#4-4」に書きましたが、その際、伏見城の遺構を使って再建したのが養源院の本堂なのだそうな。
そして、「伏見城の戦い」で籠城戦の末、自刃した鳥居元忠以下徳川方で染まった床板が、養源院本堂の廊下の天井に使われているのだそうです。

見た感じ、茶色の天井のところどころが濃い茶色になっていて、説明で「あそこが足、あそこが頭」と聞くと、言われてみればそう見えないこともない

鳥居元忠13歳の頃、徳川家康松平竹千代だった頃から仕えていたといいますから、元忠50年来の付き合いのある家康にとっては、喪失感は相当なものだったことかと思われます
でも、養源院が、血天井を伴って再建されたのは、家康が亡くなってから5年後のこと…。
崇源院(江)にとっての養源院は、父・浅井長政のほか、姉・淀殿(茶々)甥・豊臣秀頼菩提を弔う場所であるはずなのに、どうしてそこに、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦い「西軍」に攻められて没した徳川家家臣で染まった伏見城の床板を使ったのでしょうか?

忠臣・鳥居元忠を弔いたいという家康強い意思(遺志)があったのか、それを引き継いだ崇源院の夫・秀忠の意思があったのか…

そのあたり、よく判りません、っつうか、崇源院のメンタリティを理解できませんが、ただ、崇源院にとっての関ヶ原の戦いは、大坂の陣とは違って、徳川家 vs 豊臣家の戦いではなかったのだろうと思います。

   

「伏見城の遺構」という点だけでなく、もうひとつ、前日に外観だけを眺めた平等院養林庵書院との接点がありました。

養源院で購入した小冊子「養源院と障壁画」にはサブタイトルがついています。

「養源院と障壁画 宗達・狩野派・昭乗」とあります。

この「昭乗」というのは、養林庵書院篇額を揮毫した松花堂昭乗のことです。
「松花堂弁当」にその名を残す松花堂昭乗は、本阿弥光悦近衛信尹と共に「寛永の三筆」と称えられる能書家だっただけでなく、アート全般に能力を発揮した坊さんだったようで、養源院には、昭乗の描いた杉戸絵もありました

なんとも、ズラズラと繋がっていくものです…

さらに、この2週間後には、「秋田で美術館をハシゴ」で書いたように、帰省先の秋田で、

百穂は、京都・養源院で見た俵屋宗達の杉戸絵に触発され、一度描いてみたいと思っていた。その念願がかない、近衛文麿の依頼で描いたのが、この杉戸絵である。

という平福百穂の杉戸絵「るり鳥」を拝見することになるのですから

この秋田での「邂逅」知るよしもなく養源院の拝観を終えると、

時刻は既に12:30

帰りの新幹線まで2時間を切っておりまして、この時点で蓮華王院三十三間堂の拝観は「また後日」ということにして、それでも、蓮華王院南大門だけは観ておこうと決めたのでした。

つづき:2020/02/23 2020年最初の関西旅行記 #4-6 [完結編] 

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