新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-2

2017-08-15 18:07:36 | 旅行記

「暑いぞ、熱いぞ だった大阪旅行記 #2-1」のつづきです。

バス停から細い一本道を進んでいくと、がありまして、いよいよ浄瑠璃寺の境内へ。

ウン十年ぶりにやって来ました、浄瑠璃寺

眼前に広がるのは、苑池本堂

内部を拝観する前に、本堂を外から眺めました。

寄棟・本瓦葺き端正な佇まいがイイ

御本尊の九体阿弥陀如来像が祀られている本堂へは、本堂右側から拝観料をお納めして上がり、お堂の裏手を回り、南側から入ります。

廊下は、強い陽光を受けた木々のせいで、に染まっていました。

本堂内に入る前に、浄瑠璃寺の「概要」をリーフレットから転記します。

この寺は京都の最南端、奈良との府県境に位置している。そしてこの一帯は古来より南都(奈良)仏教の聖地として大寺の僧が世俗の喧噪を離れ修行、研鑽のため出入りした地域で小田原別所と呼ばれていた。
また創建時のご本尊が薬師仏であった事から、その浄土である浄瑠璃世界が寺名の由来とされている。
その後九体の阿弥陀仏とそれを安置する堂を建立し、庭園が整備され、京の都より三重塔が移築された事により今も残る伽藍が出来上がったとされている。

だそうです。
「浄瑠璃」と聞くと「人形浄瑠璃」などの歌舞音曲を連想してしまいますが、「三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽(Wikipedia)「浄瑠璃」と呼ばれるようになったのは、「デジタル大辞泉」によれば、

浄瑠璃姫
室町時代の語り物の登場人物で、三河国矢矧(やはぎ)の長者の娘。仏教の浄瑠璃世界を統率する薬師如来の申し子。牛若丸との情話が「十二段草子」などに脚色され、語り物「浄瑠璃」の起源となった。浄瑠璃御前。

が由来だそうで、浄瑠璃寺の寺名も音曲の「浄瑠璃」「薬師如来=浄瑠璃世界にたどり着くんですな。

さて、ご本尊九体阿弥陀如来像の写真と解説をリーフレット(これほど懇切丁寧かつ美麗なリーフレットって、そうそうない)から拝借します

九体阿弥陀如来像 (国宝) 藤原時代
平安期の堂・像共に現存するものとしては唯一となった九体阿弥陀仏。西の本尊で、未熟な私たちを理想の未来へ迎えてくれる如来。
“観無量寿経”にある九品往生(くぼんおうじょう)、人間の努力や心がけなど、いろいろな条件で下品下生(げぼんげしょう)からはじまり、下の中、下の上と最高の上品上生(じょうぼんじょうしょう)まで九つの往生の段階があるという考えから、九つの如来をまつった。中尊は丈六像で来迎印(下生印)、他の八体は半丈六像で定印(上生印)を結んでいる。当寺以外の九体阿弥陀仏は、平安期の石仏が九州に、また江戸期の木像仏が東京(世田谷の九品仏・浄真寺)に残っている。

往生九品9段階のランクがあることは、修学旅行で浄瑠璃寺を訪れた際、お坊さんからお聞きした記憶があります
そして、九品往生のお話以上に印象に残ったのが、春分の日・秋分の日、いわゆる「お彼岸」の話でした。

ここで浄瑠璃寺伽藍配置を見ますと、

九体阿弥陀仏が安置されている本堂を向いて建てられていて、苑池を挟んだ反対側には薬師如来が安置されている三重塔が立っています。

年に二度、春と秋のお彼岸の中日には、「過去世から送り出してくれる仏」薬師如来の背後から昇った太陽は、苑池の真上を通り、「理想の未来にいて、すすんでくる衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏」阿弥陀如来の背後へと沈みこの世(此岸)とあの世(彼岸)とを結びつける、、、こんなお話をお聞きしたことが思い出されます

ところで、本堂内には、九体阿弥陀如来像のほか、四天王像(国宝)のうち持国天と増長天不動明王三尊像(重文)、子安地蔵菩薩像(重文)、そして秘仏・吉祥天女像がまつられていますが、吉祥天女像だけは、期間限定の公開で、私が訪れた時には厨子の扉は閉じられていました

ここで思い出されるのは、この2週間後、まさしく「浄瑠璃寺吉祥天厨子絵」東京藝術大学大学美術館「藝『大』コレクション」展で拝見したこと(記事はこちら)。

浄瑠璃寺のリーフレットの「秘仏・吉祥天女像」の項には、

周囲の厨子絵は復元模写されたもの

とあります。
なぜ浄瑠璃寺の吉祥天女像の厨子絵浄瑠璃寺ではなく、東京藝術大学にあるのでしょうか?
ちなみに東京国立博物館京都国立博物館寄託されている四天王像のうち広目天と多聞天についてリーフレットには、「現在、多聞天・広目天は国立博物館に…」と記載されています。

そして、Wikipediaには

像は黒漆塗の春日厨子に安置される。この厨子の扉と後壁に描かれた仏画鎌倉時代の絵画資料として貴重なものである。ただし、オリジナルの扉と後壁は明治時代に流出して東京芸術大学所蔵となっており(1889年、芸大の前身の東京美術学校購入)、現在の扉と後壁は1976年に取り付けた模造である。

という記述が…

どういういきさつで厨子絵浄瑠璃寺から流出して、東京美術学校購入することになったのか判りませんが、1889年という年代から想像するに、明治初年の廃仏毀釈運動のどさくさに紛れて、厨子絵が行方不明になり(盗難の可能性もあるし、浄瑠璃寺関係者が「背に腹はかえられない売却した可能性もある) 、何度も転売されて何人もの「善意の第三者」の手を経た後、東京美術学校購入した、、、、なんてことがあったのかも…

もっとも、私が扉が閉じられた吉祥天女像の厨子を拝見した時には、こんな事実は知らなかったわけで、開扉期間でなかったことが残念なだけでした。

ということで、「#2-3」では浄瑠璃寺の庭を歩きます。

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