「2020年最初の関西旅行記 #4-3」のつづきです。
私、蓮華王院三十三間堂が後白河院の発願で建てられたこと、その地域を呑み込むように、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建てたことは知っていましたが、「#4-2」で書いた法住寺殿のことや、これから参観しようとしている養源院のことは、まったく知りませんでした。
養源院は通りから引っ込んだ場所に、ひとけもなく、ひっそりと佇んでいました。
伯父・織田信長に滅ぼされた父・浅井長政(戒名:養源院天英宗清)の菩提を弔うため、豊臣家・淀殿が創建し(1594年)、まもなく焼失した後、淀殿の妹の徳川家・崇源院こと江が再建(1621年)した養源院、寺院幕の三つ葉葵が鮮やかです。
養源院の拝観は、数名のグループが、お寺さんの説明を聞きながら巡る方式なのですが、私が玄関に入ったときは、だ~れもいない状況でした。
と、思ったら、3~4名の女性グループがやってきて、その方たちと一緒に、養源院を案内していただけることになりました。
まず玄関に面して、さっそく、
出たぁ~ 俵屋宗達の杉戸絵「唐獅子図」です
あぁ、これかぁ~ TV
で観たことがあります
この作品は、養源院の杉戸絵だったのか
と、不勉強ゆえの 思いがけない出会いでした
そして、鶯張りの廊下を歩くと、突き当たりにあったのが、
出たぁ~ 俵屋宗達の杉戸絵「白象図」です
そして、ふり返ると、玄関に面した杉戸のこちら側、つまり「唐獅子図」の裏側は、これまた俵屋宗達の、
杉戸絵「波と麒麟図」。
描かれている動物は、麒麟ではなく「水犀(すいさい)」という霊獣らしい(甲羅を背負っている)のですが、波と麒麟の組み合わせは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、紋所にちなんだ波が描かれた板絵を背景に座る斎藤利政(道三)と、その前に控える明智十兵衛(光秀)を連想します…
それはさておき、縦181cm×横125cm×2枚の杉戸いっぱいに描かれている白象、唐獅子、麒麟、どれもまったく写実的ではないけれど、その迫力
たるや
そして、白象と麒麟の右側、唐獅子の左側の板戸は「上から下へ」、反対側は「下から上へ
」の構図にしてあるなんて、さすが宗達
で、デザイン性に溢れています。
上の杉戸絵の画像は、小冊子「養源院と障壁画 宗達・狩野派・昭乗」から拝借したものなんですが
、この小冊子によると、崇源院(江)が養源院を再建
した際、障壁画は幕府御用絵師集団だった狩野派に発注されたものの(そりゃ崇源院は2代将軍秀忠の御台所[みだいどころ=正室]ですから…
)、狩野派はあちこちからの注文に追われて、遅々として作業が進まない…
ここで「養源院と障壁画」から引用
しますと、
そのことに危機感をもった開山・成伯(浅井長政の従弟で比叡山の僧)は、崇源院を通じて浅井家ゆかりの尾形光琳の祖父や桃山時代の大文化人だった本阿弥光悦を動かし、絵師として評価の高まっていた俵屋宗達に残りの障壁画を依頼しました。それまで大きな障壁画を制作したことのなかった宗達とその工房の人たちは、狩野派とは異なる大胆な試みをし、「松図」や杉戸絵「白象図」「唐獅子図」「犀図」などを完成させました。
だそうです。「犀図」というのは「波と麒麟図」のことでしょうな
また、この解説文の中にでてくる「尾形光琳の祖父」というのは、恐らく尾形宗伯で、その母は本阿弥光悦の姉だといいますから、「尾形光琳の祖父」と本阿弥光悦とは、甥=伯父の関係になります。
ちょっとここで狩野派の「松」と宗達の「松」を見比べてみましょ。
まず、狩野派による二条城二の丸御殿大広間四の間の「松鷹図」。
一方の、養源院にある宗達の「松図」。
どちらも大画面いっぱいに松が枝を伸ばしている重厚感たっぷりの作品ですけど、宗達の「松図」は、重厚感がありつつも、松の葉の群れが「流れ」というか「リズム」を生みだしていて、矛盾があるけど、軽快感も併せもっている感じです。
どちらが好み? と聞かれれば、そりゃ琳派好きの私ですから、宗達の「松図」に軍配を上げます
というところで、一息 入れます。
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