「深谷までドライブ #3 石碑編」のつづきは、建物編です。
訪問した順番に紹介しましょうか。
リーフレットによれば、
屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家の形を残している。
だそうで、このあと訪れた「尾高惇忠生家」も同様に「煙出し」のある様式でした。
「おかいこさま」が飼われていた屋根裏の通気と採光を考慮した設計かとおもわれます。
養蚕は日本各地で行われたわけですが、それぞれの地域毎に、「通気と採光」を目的とした屋根の設えに特徴があるようで、今後の旅行の際には注目したいと思います。
さて、明治期前半の建築と聞くとおりの佇まいを見せている「中の家」主屋の周囲を時計回りに巡ると、
おりゃ? この主屋の写真を改めて眺めると、2階の屋根の鬼瓦には家紋の「丸に違い柏」、「煙出し」の鬼瓦には商標の「ちぎり」(「#2 紋編」をご参照方) が描かれていました。
生活と家業とに区切りをつけるとか、そんな意味があったのでしょうか?
知らんけど…
そんなことを考えながら、土蔵Ⅲをしばし眺めて、
主屋の裏手に出ると、、、、、あれ
正面から見るのとぜんぜん違う
現代の農家だと言われればそのまま信じそうな感じです。
栄一が東京を拠点に生活していることから、中の家の当主は、栄一の妹・てい(貞)の婿・市郎(才三郎)が務め、その跡は次男・治太郎が、これまた東京を拠点に生活した長男・元治に代わって引き継いでいます。
また、リーフレットによると、
昭和60(1985)年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。平成12(2000)年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属した。
つまり、現在のような「史跡」扱いになったのは20年ほど前のことで、それまでは普通に使われていたわけですから、「現代の農家」のような風情をたたえているのもむべなるかなですな
次は諏訪神社です。
諏訪神社は、本殿と拝殿が完全に別棟になっていて、また、籬に囲われているわけでもありませんので、
本殿をしっかりと拝見することができました。
この本殿は、「諏訪神社修繕記念碑」によれば、
現在の本殿は、明治40(1907)年9月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。
だそうで、栄一と村民の折半というところがイイです。
村の鎮守の本殿の造営に、神社の崇敬者が懐具合に応じて費用を出し合うというのは、自然だし、村民にとっては、「自分たちの神社」という感覚を持てるでしょう。
ところが、これだけで話は終わらないところが爽快なところで、「#3 石碑編」で書いたように、大正5(1916)年に、村人が栄一の喜寿を祝して獅子舞を披露したところ、意気に感じた栄一は、拝殿を新築して寄進したのだとか。
何ともカッコいい
諏訪神社の社務所は、地域の集会所を兼ねていて、その名も「血洗島ふれあい会館」
「血洗島」と「ふれあい」のことばの響きがなんとも…です
あ"、写真は撮っておりません
次は「渋沢栄一記念館」。
栄一の祥月命日である平成7(1995)年11月11日に開館しました。資料室には栄一ゆかりの遺墨や写真などが展示されています。
という、深谷市の威信をかけたような威風堂々の記念館でした。
展示は、諏訪神社の獅子舞に使われる獅子頭とか、米国からやってきた「青い目の人形」(めちゃかわいかった)とか、興味をそそられるものもありましたが、もうちょいと整理した方が、観る側にとってはありがたい気がしました。
どことなく、時代的に行ったり来たりする感がありましたので…
最後は、「尾高惇忠生家」です。
リーフレットによると、
この尾高惇忠生家は江戸時代後期に惇忠の曾祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。当時は「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建物です。
この家で栄一の妻となったちよ、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場工女第一号となるゆうが育ちました。また、若き日の惇忠や栄一らがときの尊皇攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取りの謀議をなしたのもこの家の二階と伝わります。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」を視ていれば、すんなりと頭に入ってくる一族ですが、判らない方のために、リーフレットに載っていた尾高家の系図を転載しましょう。字が細かいので、PDFも視られるようにしました。
「旧渋沢邸 中の家」は、家の中に立ち入ることができませんでしたが、この「尾高惇忠生家」は、土間を通り抜けることができました。
この家を建てたのは磯五郎さん(1807年没)だということは、築後210年以上は経っているということですか…
ところで、この家も、中の家みたいに、裏から見たら今風(いまふう)になっているのでしょうか?
そこで、土間を抜けてふり返ると、、と、その前に、
レンガ造りの土蔵がありました。
この土蔵に使われているレンガは、渋沢栄一が設立した日本煉瓦製造製のものだそうで、まさしく「地産地消」(工場は現在の深谷市内)でございます。
良く見ると、これはイギリス積みですな(こちらの記事をご参照方)。
で、尾高惇忠生家の裏側はこんな具合でした。
おぉ、これはちょいと時代を感じます
ただ、UHFアンテナが、私を現実に引き戻したのでありました。
ということで、甚だ簡単ではありますが、これにて尾高惇忠生家の見学を終えて、帰路につきました。
旧煉瓦製造設備も見学したいところだったのですが、ホフマン輪窯が保存修理工事のため、2024年頃まで公開中止だそうで、そのまま自宅に向かいました。
こうして往復約130kmのドライブは無事に終了しました。
「往復約130km」といえば、かつての私のクルマ通勤とほぼ一緒。
なんという長距離通勤をしていたのだろうかと、改めて、しみじみと感じ入った次第です。
めでたしめでたし。
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