新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

王子を歩き回った(その2)

2012-03-03 10:39:59 | タウンウオッチング

王子を歩き回った(その1)」のつづきです。


私が就職して間もない頃、帰省からUターンする時、電車の窓から古ぼけた王子駅前(東口)が見えてくると、きまってなんとも憂鬱な気分になってしまい、おかげで、王子に対する印象は芳しいものではありませんでした。


その後、首都圏で暮らすうちに首都圏各地域についての情報が貯まってくると、首都圏初心者だった私の王子に対する印象は完全な偏見だったことが判ってきました。
まったくもって王子には申しわけないったらありません


120303_1_01 現在の私が王子から連想するものといえば、落語「王子の狐」飛鳥山都電荒川線玉子焼き王子製紙国立印刷局滝野川工場3つの博物館首都高中央環状線飛鳥山トンネルさくら新道などなど、新旧もろもろで、王子の街を歩き回ったら、さぞかし楽しいだろうと思った次第です。




   


さて、音無親水公園音無橋萌えながら最初に訪れたのは、王子の地名の由来になった王子神社

神社のHPによれば、


創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。


とのこと。

東京(江戸)としてはかなり由緒ある古い神社ですが、現在の社殿は、


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と、立派な造りながら、ごく普通で、あんまり面白くありません

戦前までは、


三代家光公は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」三巻を作らせて当社に寄進しました。その後も五代綱吉公が元禄16年(1703年)、十代家治公が天明2年(1782年)、十一代家斉公が文政3年(1820年)と造営修繕された社殿は秀麗な権現造りで、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も17社を数えていました。


だそうですが、戦災で焼失してしまい、現在の社殿は


昭和39年の第一期、昭和57年の第二期造営を経て、黒塗りと金箔をほどこした壮大な権現造りとして社殿を再建、境内を整えて現在の景観となっております。


とのこと。

ちょっとがっかりした私は(お参りはしました)、再び音無川親水公園に降り、橋を渡って音無橋のたもとに登り、明治通り沿いに飛鳥山公園に向かいました。


明治通り飛鳥山にぶつかる丁字路で妙な一群を発見


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何人もの中高年がカメラを構えています。

何を撮ろうとしているのでしょうか?


どうやら都電荒川線がカーブしながらすれ違うところを撮ろうとしているようでした。


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私はさほど興味がありませんので、三ノ輪方面行きの電車だけをパシャリ


それよりも私が注目したのは、


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首都高中央環状線飛鳥山の下に潜り込む風景です。

板橋JCTから中央環状線を東に向かうと(いつもの通勤は首都高5号線から板橋JCTを南進)、江北JCT首都高川口線と合流するまでの間、高架から一気に地下に潜り込んで(上の写真の地点)、クネクネカーブがあって、また一気に地上に出たかと思うと高架になって、運転しているとジェットコースターに乗っているような気分を味わえます(くれぐれもスピードの出し過ぎにはご注意を)。


   


さて、江戸中期からの観光スポット:飛鳥山公園


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飛鳥山は上野台地の東端になっていて、崖下をJRが通っています。

ロータリークラブが設置した石碑によれば、


飛鳥山のお花見は 向島とともに仮装が許されていたので まるで落語にでてくるような仇討の趣向や 変装などのためにたいへんな賑わいでした
また 東側の崖からは カワラケ投げなども行われ 土皿を風にのせて遠くまで飛ばす遊びも盛んでしたが 明治の末になって 危険防止のために禁止されました


だそうです。

落語の「長屋の花見」とか「花見の仇討ち」とか「愛宕山」を彷彿とさせる光景が展開されていたようですな。


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今のご時世、東側の崖からカワラケ投げなんぞをやった日には、列車往来危険の罪懲役2年以上の有期刑)に問われる可能性がありますので、ご注意ください


120303_1_08 飛鳥山公園には「飛鳥山碑(あすかやまのひ)」という石碑があります。

屋根が架けられて、大切にされているこの石碑、傍らにある東京都教育委員会による説明板によれば、


碑文には元亨年中(1321~3)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。


とあって、更に、


異字体や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく知られている。


のだそうです。
「よく知られている」と言われても、私は初めて知りました…

どのように難解なのかは、こちらのサイトが参考になりそうです。


   


上に載せた「飛鳥山公園案内図」注目すべきスポットを見つけました


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古墳


案内図の赤い点線の下側は旧澁澤庭園のエリア(夜間閉鎖区域)だそうですが、それはさておき、さっそく古墳に行ってみました(結構、古墳好きな私…)。


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かなりこぢんまりしたなだらかな古墳ですなぁ。


説明板によると、この古墳は「飛鳥山1号墳」という名前だそうで、


古墳時代後期の直径31mの円墳。平成元年の調査で周囲には幅3.8mの周溝が廻ることが確認された。また、平成5年の埋葬施設の調査で、切石を使用した横穴式石室が確認されている。石室は玄室の左側壁の最下段と床石の一部が原位置を留めている他は、大きく壊されていた。石室の形態は残された側壁から「胴張型(どうばりがた)横穴式石室」と判断できた。石室内からは大刀や刀子の破片、鉄鏃(てつぞく=やじり)・耳環(じかん)・管玉(くだたま)・切小玉(きりこだま)・ガラス小玉が出土している。公園内では他にも古墳の周溝が確認されており、古墳群が形成されていたようである。


とのこと。
ちなみに「古墳時代後期」というのは6世紀(前半)頃。

それにしても、一民間人の所有だった庭の中に古墳があるってのは凄い話です。

この旧澁澤庭園のことはまた後日


つづき:2012/03/04 王子を歩き回った(その3)

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