「南九州旅行記(その13:鹿児島・知覧の巻②)」のつづきです。
17:00時ちょい過ぎに鹿児島中央駅前に帰着した私、まだ日が暮れるには時間があるということで、遠回りしてホテルに戻ることにしました。
まず、日本全国、主要都市の中央駅前に欠かせない郵便局の建物を遠目から鑑賞
1950年代末~70年代初めの官庁建築にありがちな外観です。例えば、旧東京国際郵便局とか、ていぱーく(逓信総合博物館)とか、NTTコミュニケーションズの本社(旧電電公社本社ビル)とか、外務省とか中央合同庁舎第3号館(国交省が入居)とか、、、私が通っていた大学にもこれ系の建物がありましたっけ…。
さて、朝に廻りきれなかった加治屋町界隈(記事はこちら)で落ち穂拾いをしようかと歩き出しますと、とある看板に描かれた図案が目に止まりました。
日本料理店(サイトはこちら)のシンボルマークになっているのは、江戸東京たてもの園で見た奄美の高倉ではなかろうか
なんだか屋根と柱しかない四阿(あずまや)のように見えますが、これは高床式の倉庫です。
屋根の内側が倉庫になっていて、出し入れするときはハシゴをかけるのだとか。
そういえば、石原荘さんのシンボルマークにはハシゴも描かれています。
これも何かの縁ですから、晩ご飯は石原荘さんでいただきましょうか…、とはならないんですな、これが…
そして、再びやってきました加治屋町
ここで、(その13)の【追記】で宿題にしていた「鹿児島市加治屋町の『二つ家』と『知覧型二つ家』を比較」してみます。
まず、知覧型二つ家の特徴は知覧の旧高岡家住宅の説明板によると、
鹿児島に独特だといわれる二ツ家の中で、特に知覧だけにみられる二ツ家は、二つの屋根の間に小棟をおいてつなぎとした造りです。
だそうで、知覧の旧高岡家住宅を見ますと、
おぉ、確かに「おもて」と「なかえ」が小棟でつながれています。
一方、加治屋町に復元された二つ家はといいますと、
意識して撮っていなかったもので判りづらいですが、「おもて」と「なかえ」が「樋(て)の間」でつながっているところは知覧型二つ家と同じながら、屋根は2つです。
鹿児島大学工学部の方々の研究(こちらを参考にしました)をもとに、典型的な普通の二つ家と知覧型二つ家の屋根の平面図を模式的に描くと、
となります。
屋根組を除けば、基本的に同じ構造ながら、①なぜ「知覧型二つ家」が建てられるようになったのか、②またそれはいつ頃からなのでしょうか。
参考にした論文によれば、①知覧に腕の良い大工がいた、②古くとも幕末期~明治初年に成立したということらしい…。ちょっと、なぁ~んだ…の感をぬぐい得ません
それはそうと、加治屋町の二つ家の棟飾り(というのか?)が、お相撲さんの大銀杏みたいでかわいいぞ
さて、朝の加治屋町散策では、「元帥公爵大山巌誕生之地」や「西郷隆盛誕生地(西郷従道の誕生地でもある)」 を巡ったわけですが、夕方の第二弾では、
「大久保利通生い立ちの地」に行き当たりました。
「誕生之地」「誕生地」ではなく、「生い立ちの地」とは、何とも奥歯に物が挟まったような命名ですナ
これというのも、近くにある説明板によりますと、
大久保は、1830年(天保元)下級役人ながら琉球館付役を勤め、学識豊かな利世(子老)を父として高麗町で生まれ、まもなくこの下加治屋町に移りました。
だそうです。つまり、「ものごころがついてからはこの地で育った」から「生い立ちの地」ということらしい。でも、「生い立ちの地」という言い回しを初めて見ました。
ところが、「生い立ちの地」に立っている巨大な墓石のような記念碑(利通暗殺から11年後、大日本帝国憲法の発布から間もない1889年3月に建立)には、
「大久保利通君誕生之地」と彫られています。
う~む、、、変なの…
ここからほど近いところに「二松学舍跡碑」という記念碑が建っていました。
裏側を見ると、
二松学舎は、明治初期に創設され、この地周辺において学習、武道、詩吟、示現流等により、心身の鍛練に励み、先輩が後輩に教える郷中教育を継承してきたものであり、この跡碑は、後世に郷中教育を継承するために建立したものである。
とあります。
へぇ~、二松學舍って、ここが発祥なんだ…、なんて軽く考えていたのですが、この記事を書くにあたって調べると、二松學舍大学とはまったく関係がないことが判明しました。
二松學舍大の「建学の理念」を見ると、天保元年(大久保利通と同じ)に岡山で生まれた三島中州が1877年10月10日に東京・三番町の自宅内に開設した「漢学塾二松學舍」がその発祥だそうで、方や鹿児島の二松学舍は、江戸時代の郷中(ごじゅう)教育の流れを汲む「舎」の一つのようです。
この薩摩藩独特の「郷中(ごじゅう)教育」(会津藩にも「什(じゅう)」という似た制度があったらしい)、調べても、なかなかまとまった説明が見つかりません
それでも何となく判ったのは、鹿児島城下がまとまった区域ごと(方限:ほうぎり)に分かれ、さらに、各方限に住む武士階級の青少年(6~20代前半)たちが年代ごとのグループに分かれて、それぞれのグループのリーダーの統率の下、また、上の年代のグループから指導を受けながら、学問や武道に励んだというものらしいです。
現在の教育制度は完全に学齢で分かれていて(部活やスポーツクラブは例外的)、日本各地の村落にあったという若者組や薩摩の郷中、会津の什といった、年齢に幅のある子どもたちが共同で勉強やスポーツに励む機会は少なくなっています。
私の小さかった頃を振り返れば、近所に同年齢の友達が何人もいたためか、年上や年下の子どもたちと遊んだ記憶はほとんどありません。
でも、小さな頃から年齢の枠を超えた付き合いをして、年齢が上がれば小さな子どもたちの面倒を看る体験は、社会性とかリーダーシップを身につけるのに効果があったのだろうなと思います。
最近じゃ、年齢の枠を超えた付き合いをする集団といえば、暴走族だ、けんかだと、ろくでもないニュースでしか耳にしませんな…
このように、旅行をして、あとで振り返って旅行記を書くと、復習だけでなく、新しい情報を手に入れることができるものだと、しみじみ思うわけですよ。
6年越しのつづき:2017/03/26 6年前の南九州旅行 4日目のこと(前編)