新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

秋田市内の美術館&記念館もなかなか♪(その1)

2011-08-18 12:42:43 | 美術館・博物館・アート

6泊7日の今回の帰省の間、8月13日の記事「『藤城清治の世界展』に行ってきた」で書いた秋田県立近代美術館のほか、秋田市の市街地にある平野政吉美術館赤れんが郷土館にも行ってきました。

どちらも予想以上に楽しく、行って良かったなと思っています。特に「赤れんが郷土館」は、買い物に行くという母をデパートの前でクルマから降ろし、ピックアップする約束の時間までの1時間半でドタバタと鑑賞したもので、なんとも濃密なひとときでした。

   

まず、印象的な建物で、秋田市民にとって馴染み深い平野政吉美術館
こちらは、8月14日の夕方、友人たちとの恒例の飲み会に出かける前に立ち寄りました。

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平野政吉美術館を訪れるのは二十数年ぶりのこと。
当時の私には、スペインの宗教画こちらの一番左の列の一群)とかゴヤの銅版画集「闘牛技」が陰鬱な感じで、パッとした印象がなかったのですが、それから二十数年の時を経て、どんな印象を与えてくれるのか、かなり楽しみでした。

巨大なの花が咲き乱れるお堀を眺めながら中土橋を渡ると美術館があります。

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美術館の館名碑(というのか?)が、建物を模したものだは知りませんでしたなぁ

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そして、入口(2階)に向かう階段の前にはこの看板

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泰西名画」という言葉、かなり久しぶりに目にしました
看板の文字の色あせ具合といい、年季の入り具合が見てとれます。

ふと、視線を左に向けると、柱の陰に置かれた二つの胸像が目に入りました。
一つは、秋田の富豪であり美術コレクター・平野政吉氏の胸像で、もう一つは、

110818_1_08画聖 藤田嗣治畫伯之像
なぜこんな柱の陰に置かれているのか、なぜ「」と「」が使い分けられているのか、謎です…

それはともかく、超久しぶりの平野政吉美術館、いやはや、これほど藤田嗣治の作品を収蔵しているとは思いもよりませんでした。
しかも、藤田嗣治作品が語られる時に必ずといっても良いほど使われるフレーズ「乳白色の肌」や「面相筆による線描を生かした独自の技法」は、藤田嗣治の初期の画風で、生涯を通じてみれば、一部の作品の特徴でしかないことが理解できたことは大きな収穫でした。

もちろん、「乳白色の肌」や「面相筆による線描を生かした独自の技法」(そしてつや消しの漆黒)が炸裂している作品(「眠れる女(1931年)や「五人女(1935年)」)も展示されていました。
しかし、平野コレクションはそうした作品だけでなく、藤田の画風に大きな転換をもたらしたらしい1931年10月からの中南米歴訪以降の作品(例えば「町芸人(1932年)」、「1900年(1937年)」とか)や、藤田が中南米で買ってきたお土産の民芸品なんぞも展示されていて、「藤田のことをもっと知りたい」という人たちにはかなりお薦めの美術館だと思いました。私としては「北平の力士(1935年)」が好きだなぁ…

また、常設展「藤田嗣治 紙に息づく女性像」にも、胸がときめく作品が揃っていました。
とくに、鉛筆で描かれた「横臥裸婦(1931年)」と、墨で描いて薄く彩色された「雪国の少女(1936年)」はお持ち帰りしたい作品でした。
このうち「横臥裸婦」は、愛妻マドレーヌをモデルに描いたもので、マドレーヌの急死(1936年6月)から15年後の1951年に制作されたエッチング集「魅せられたる河」の一編「オペラ座の夢」の事実上の「習作」になっていると思われます。

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そして、平野政吉美術館の目玉、「秋田の行事

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画像は北海道新聞のサイトから拝借いたしました。クリックすると平野政吉美術館作成の解説資料(PDF)が開きます。

いやはや、凄い作品です。

パトロン・平野政吉宅の米蔵をアトリエに、174時間で描き上げたという365.0×2050.0cmの超大作

平野政吉美術館作成の解説資料を引用しますと、

壁画は、橋を境に祝祭と日常が対照的に展開する。橋の右に描かれているのは、主に外町にかかわる祭りと年中行事。外町の総鎮守社・日吉八幡神社山王祭太平山三吉神社梵天奉納、外町の年中行事・竿燈が、それぞれ最高潮を迎えている。梵天の彼方に山容を見せるのは、三吉神社の神体山・霊峰太平山である。
橋の左では、外町を人々が行き交い、冬の暮らしが営まれている。雪上に錆鶴、商家の屋根の上には天水蓋が置かれ、雪室や秋田べらぼう凧で子どもたちが遊ぶ。油井、馬樺の上の米俵、木材、酒樽が、秋田の産業を表している。
祝祭空間と日常風景の境界として描かれているのは、高清水丘陵にある香櫨木橋。橋が古代の城柵・秋田城が築かれたこの丘を暗示している。画面の奥に奈良時代からの時間が流れ、香壇木橋の上で秋田の時空が交差する。

ですと。

地区も春夏秋冬もゴシャゴシャですが、秋田(の外町[とまち:町人街])のパワーが伝わってくる作品です。

この作品は、1936年11月に平野政吉さんが藤田作品を中心とするコレクションを展示する私設美術館の建設を思い立ち、その壁を飾るために藤田が描いたもの。
ところが、作品は完成したものの、時局が悪化して美術館構想は頓挫してしまいました
そして、

1967(昭和42)年、平野の念願の美術館は秋田県との連携のもと、最初の計画からほぼ30年を経て開館しました。同時に平野は財団法人平野政吉美術館を設立します。同財団には「秋田の行事」など平野が所蔵していた藤田の油彩画、スケッチ、写生、版画などが寄贈されました。それらは1930年代の藤田の画業を俯瞰するコレクションになっています。

30年来の夢が叶って美術館が完成し、丸窓から自然光が入る大空間に「秋田の行事」が展示されているのを観る平野さんの感慨はいかばかりだってしょうか…。
平野さんは1989年に94歳で天寿を全うされましたが、一方の藤田は平野政吉美術館に展示された「秋田の行事」ほか自作品を観ることなく、美術館開館のわずか半年後、1968年1月にチューリッヒ州立病院で81年の生涯を閉じています。合掌…。

以前から、埼玉県立近代美術館(「横たわる裸婦と猫(1931年)」を収蔵)ほかで何度か観た藤田の「乳白色の肌」系の作品と、この「秋田の行事」(やこちらで書いた東京国立近代美術館収蔵の戦争画「血戦ガダルカナル」)とが一直線につながらなかったのですが、平野コレクションを拝見して、ようやく合点がいったのでした

   

ところで、秋田県は秋田市中心市街地の再開発事業の目玉として、すぐ近くの場所に新しい秋田県立美術館を建設中です。そして、平野政吉美術館の収蔵品はこの新・秋田県立美術館で展示されることになるのだそうな。

ちょっとここで秋田県立美術館平野政吉美術館の関係について。
Wikipediaには、

なお正式には、上述のとおり当美術館の登録名称は秋田県立美術館であり平野政吉美術館というのは上記財団法人の名称であるが、同財団の寄附行為においては秋田県立美術館において同財団の美術品を展示することが明記されており、実際上も当該財団が秋田県立美術館の指定管理者として管理をしているため、一般には秋田県民の創作発表のギャラリーとして使用されている美術ホールが秋田県立美術館で、展示室部分が平野政吉美術館と認識されている

と記述されています(私も赤字にした記述と同じ認識でした)。

平野政吉美術館のサイト(こちら)にはもうちょいと詳しく経緯が書かれていて、ポイントは、

藤田の壁画をはじめとする平野コレクションの公開展示のため、国の補助金、県、一般の団体個人、平野個人の資金(徒然煙草注:総工費約2億円のうち5千万を寄付)を合わせ、候補地を選択し、千秋公園入口に現在の美術館が建てられました。

と、

昭和41年には平野はフランスに出向き、藤田嗣治に美術館建設の報告と挨拶をしています。美術館の屋根の形、丸い窓、天然光を取り入れること、壁画の高さと左右アールをつけての展示などは、藤田のアドバイスです。

の2点でしょう。

新・秋田県立美術館の建設と平野コレクションの引っ越しは、こちらのサイトによると、

財団法人平野政吉美術館が平野政吉美術館の移転要請をされたのは、2007年(平成19年)11月であったが、主な移転理由は、平野美術館にある藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を再開発地区の集客の目玉にしたい現美術館が老朽化し10年以内の耐震補強のための大規模改修が必要となる。県財政が厳しく、10年後の改修費の確保が困難になる可能性があり、今回移転したほうがよいなどであった。

だとか(こちらも参考になります)。

なんとも苦しい県の説明ですナ。

再開発地区の集客の目玉にしたい」は、現在の秋田県立美術館(平野政吉美術館)とは目と鼻の先にある再開発地区に移転したところで、閑散とした広小路地区の活性化につながるとは思えません。

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また、改修よりも移転・新築という発想は、国の補助金制度に乗っかったハコモノ行政・土木行政そのものです。

現・秋田県立美術館が、完全に平野政吉美術館頼みで、「秋田県民の創作発表のギャラリー」とされている1階の「美術ホール」のチンケさときたら、とてもこれが県立美術館の展示室とは思えないのは確かです。
ですが、平野政吉さんの夢の結晶であり、藤田画伯のアドバイスを取り入れたあの個性的な美術館を廃して、日本中のどこにあっても違和感のない建物に平野コレクションを移転させるだけの説明になっているとは思えません。

秋田の行事」にしても、こんな無機的な展示室ではさぞかし居心地が悪いでしょう。

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秋田市ネイティブにとっては、千秋公園入り口の直線的な県民会館と曲面と平面で構成されている現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、お堀の対岸がいかに寂れようと、愛着ある風景なのですよ

つい最近のニュースとして、東日本大震災の影響(資材不足)で、新・県立美術館の竣工が3か月遅れ開館は2013年秋頃になるのだそうです。
もともといつの開館を予定していたのか判りませんが、現在の場所で「秋田の行事」で見納めするタイミングが遅くなるのは個人的にはよろしいことかと…

   

110818_1_12 この日、「チンケな美術ホール」では「白瀬・南極・環境企画展」が開催されていました(入場無料)。

ひどく汚された南極(汚したのは各国の観測隊や観光客:ヒマラヤの現況と似た話)でけなげに生きているペンギンの写真とか秋田県出身の白瀬矗中尉による南極探検に関する資料が展示されていました。

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どうやらこの企画展は、白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクトへの協賛金集めのイベントだったようです。

そんな意図はともかくも、もう少し時間があったら(閉館時刻まで数分)、じっくり拝見したいところでした。
そして、いつかにかほ市にある「白瀬南極探検隊記念館」を訪れてみたいと思ったものです。

アムンゼンスコットと比べて郷土の英雄白瀬中尉の知名度が低すぎるのが残念です。
四代目南極観測船が、三代目を引き継いで「しらせ」と命名されたことは救いではありますが…。

つづき:2011/08/19 秋田市内の美術館&記念館もなかなか♪(その2)

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