新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南九州旅行記(その13:鹿児島・知覧の巻②)

2011-08-15 23:54:05 | 旅行記

終戦記念日とはほとんど関係なく、「南九州旅行記(その12:鹿児島・知覧の巻①)」のつづきです。

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知覧の武家屋敷通りの入口にある案内図を見ている私に声をかけてきたおばさん曰く、

入園料を払ってください

えっです。「入園料」って、庭園を見学するための料金じゃないのか?

徒然煙草:この通りを通るだけなんですけど、それでも入園料が必要なんですか?
おばさん:お願いします

なんとも腑に落ちないものの、ここで論争するのもバカバカしい気がして、入園料(500円也)を払うことにしました。財布から千円札を取り出しておばさんに渡すと、「お釣りを持ってきますから」とな。
通り過ぎる人をとっ捕まえて入園料をふんだくるなら、お釣りの五百円玉くらい何枚か準備しておけよデス

それにしても、武家屋敷通りは公道ではないのだろうか?
おばさんから「入園券」代わりにもらった知覧武家屋敷庭園有限責任事業組合発行のリーフレットには、「武家屋敷庭園のご案内」として、

年中無休
開園時間 午前9時から午後5時まで
入園料 (7庭園共通)
大人(高校生以上) 個人 500円 団体(30人以上) 400円・・・

と書かれていて、どう考えても、庭園への入園料です。
それなのに、何の権限があって、道路を歩きたいだけの観光客から入園料をふんだくるんだ
と、かなり憮然として、武家屋敷通りに足を踏み入れました。

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せっかく500円払ったのですから、庭園も拝見させていただかないとMOTTAINAIので、立派な庭園を見物させていただきました。でも、腑に落ちないままですから、あまり楽しめませんでした

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普通に暮らしている民家が、どこの誰かも判らない一見(いちげん)の観光客に自宅の庭園を開放するのは、気疲れすることでしょうし、庭の手入れに手間とお金がかかることは十分に理解できます。
通りには、一般公開していない民家や、空き地になってしまっている区画もありましたし。

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でも、改めて、こちらの看板を見ると、

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無料公開 旧高城家住宅」とあります。

やはり、武家屋敷庭園への入園料なんじゃないか

それなのに、あの「入園料取扱所」のおばさんの「タダ見は許さないからね」的な高飛車な態度は、いったい何
思わず、外務省パプアニューギニアブーゲンビル島アラワ市以南について出している渡航情報(危険情報)を連想しました。

この地域では、反政府勢力が道路上に検問(チェックポイント)を設けている箇所があり、外国人などの通行人から通行料との名目で金銭を要求しています。自治政府は、一般人がこのような勢力と接触することは避けるべき、との姿勢を示しています。

なんだか似ている話です。

そんなわけで、私の知覧武家屋敷に対する印象はかなり悪い

   

気を取り直して、知覧武家屋敷についてちょっとだけ書くことにします。

例の知覧武家屋敷庭園有限責任事業組合発行のリーフレットによれば、

江戸時代の知覧は当初、島津家の分家である佐多氏が地頭として治めていました。佐多氏には優れた当主が多く出て、薩摩藩の中でも重要な役目を果たしました。その功績によって佐多氏十六代久達の時代に島津姓の使用が許されました。
現在残る武家屋敷群は、佐多氏十六代島津久達(1651~1719)の時代もしくは、佐多氏十七代島津久峯(1732~1772)の時代に造られたのではないかとされています。地区内は石垣で屋敷が区切られ、沖縄によく見られる石敢當(魔よけの石碑)や、屋敷入り口には屋敷内が見えないように屏風岩(沖縄のヒンプン)があります。知覧の港が江戸時代に琉球貿易の拠点であったことから、武家屋敷も琉球の影響を多く受けているようです。

だそうで、あちこちで多用されている「薩摩の小京都」というよりも、琉球風だと、沖縄に行ったことのない私も感じました
だって、この風景とか、

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110815_1_07 こちらの佇まいとかは京都というより琉球でしょう

   

こうして、心にわだかまりを残したまま武家屋敷を見終わった私が目にしたのはこちらの看板。

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「知覧亀甲城公園」として、

ここは、中世の亀甲城(別名蜷尻[ミナジリ]城)の跡です。らせん状の道が頂上に達し、井戸や曲輪、堀切、土塁などが残されています。北面に麓川が流れ、矢櫃[ヤビツ]橋(二重眼鏡橋)が架かっています。「矢の櫃[ヒツ]」とか「矢引[ヤビ]く」が語源と言われています。
この城は知覧城の出城で、鹿児島市方面からの外敵侵入に備えた前衛的城塁です。南面台地の通路を経て知覧城との連絡がなされていました。城の頂上に南北朝の忠臣知覧又四郎忠世の碑が建っています。

という説明があります。
鹿児島市に戻るバスまで時間があることだし、と、登ってみることにしました。

つづら折りの石段を登り、

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満開のツツジをかき分けるように登っていくと、

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道しるべがありました。
ところが、真っ黒に汚れていて、何が書かれているのかさっぱり判りません

110815_1_11 当然、どちらに行けば良いのか判らないわけですが、そこは、「登り」を選ぶしかなかろうということで、先に進みます。

110815_1_12 案内板にあった「らせん状の道が頂上に達し…」のとおり、この道を進めば頂上にたどり着けるはずです

そして、無事に亀甲城の頂上に到達しました

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南朝義臣知覧氏彰忠碑」が立っています。
が、眺めは…… 周りの木に遮られて、風景なんぞさっぱり見えません…
ちょいとがっかり…

ところで、顕彰されている「知覧又四郎忠世」とは何者なのでしょうか?
調べてみましたが、なかなか情報が見つかりません。こちらのサイトの情報がそれっぽいのですが、出典が明らかではありません。
それでも整理すると、

この土地は平安時代から「知覧」と呼ばれていて、開拓した平氏の子孫、頴娃(えい)忠信が知覧の地を与えられて知覧氏(平氏系知覧氏)を名乗るようになった。
一方、薩摩大隈両国の守護と島津荘惣地頭になった島津忠久が、一族を各地に地頭として配し、知覧に配された系統も知覧氏(島津系知覧氏)を名乗るようになった。
以降、平氏系知覧氏は郡司を、島津系知覧氏は地頭職を世襲していたとされるが、1353年に足利尊氏が、島津家5代貞久の弟で佐多氏の初代となる忠光に知覧を与えたことによって佐多氏の支配地となった。
南北朝時代、南朝方についた郡司・平氏系知覧氏は又四郎忠世の討ち死にによって滅び、地頭・島津系知覧氏も室町初期に没落した。

ということらしい。

この「彰忠碑」が建てられたのは1933年で、揮毫は「陸軍中将正四位勲二等佐多武彦」とあります。つまり、どうしたことか、かつてこの地で平氏知覧氏とライバルだった佐多氏の人が顕彰しているわけです。
明治政府による天皇制教育の一環としての「忠臣・楠木正成」のヒーロー視が影響しているのではなかろうかと思うのですがいかがでしょうか?

   

なんとも眺めの良くない亀甲城の頂上から、なんとも良い眺めの山腹を通り、

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矢櫃橋を渡って、

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武家屋敷入り口」バス停から路線バスに乗り、いろいろ感情を揺り動かしてくれた知覧を後にしたのでありました。

【追記】諸事情により本編に載せなかった知覧亀甲城公園の中腹にある「知覧型二ツ家」の写真を…

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なかえ」と「おもて」の二つの棟をつないだ「二ツ家」は、「その11」に書いたように、鹿児島市内でも見ることができます。
知覧型」とそうではないものとはどこが違うのでしょうか?
上でちらりと触れた「旧高城家住宅」にあった説明板によると、

鹿児島に独特だといわれる二ツ家の中で、特に知覧だけにみられる二ツ家は、二つの屋根の間に小棟をおいてつなぎとした造りです。民家建築文化史の上からも、貴重なものとされています。

だそうです。
稿を改めて鹿児島市加治屋町の「二ツ家」と知覧型二ツ家を比較してみます。(2011/08/16 08:01)

コメント
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