新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南九州旅行記(その12:鹿児島・知覧の巻①)

2011-08-14 13:08:45 | 旅行記

突然ですが、7月22日の記事「南九州旅行記(その11:鹿児島・加治屋町界隈編)」のつづき、知覧編です。
知覧といえば、陸軍知覧飛行場跡武家屋敷が思い浮かぶわけで、私のとりあえずの訪問先はこの2カ所でした。

鹿児島市から知覧まで手段として、一時はレンタカーも考えましたが、思いついたのが遅すぎて、手頃なサイズのレンタカーは見つかりませんでした。また、定期観光バスという手もありますが、せっかく鹿児島までやってきて、自分のペースで歩き回れないのももったいない…。
ということで、路線バスに乗って知覧に向かうことにしました。

鹿児島市から知覧に向かう路線バスの時刻表はこんなでした(クリックすると最新の時刻表のPDFが開くはず)。

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 注:▼は土・日・祭日運休です

ほぼ1時間に1本で、所要時間は1時間20分と、結構な時間がかかります。
加治屋町界隈の散歩を終え、鹿児島中央駅発 9:07のバスに乗るべく、バス停に着くと、

110814_1_2 おわぁ かなり並んでいます

ガラガラのバスに1時間20分も揺られるのは、寂しいものでしょうから、これもまた良しとしましょう。
とかなんとか思っているうちに、私の後ろに列がぐんぐんと伸びていきます。

そうしてやってきたバスは、、、私は観光バスタイプのクロスシートで補助椅子がついているようなバスだと勝手に想像していましたが、地方の路線バスで良く見かける「2列+1列+つり革」タイプのバスでした。
これでは、待っていた乗客全員が座れるはずもなく、こんな具合。

110814_1_3 立ったまま1時間20分というのは、体力的に厳しいでしょうし、
しかも路線バスですから、途中のバス停にも律儀に停車し(渋滞回避ということで一部のルートをバイパスしてました)、地元の方々が乗ったり降りたりと、かなり精神的にも厳しいはず。

結局、鹿児島中央駅から乗った乗客は、座れた人は座ったまま座れなかった人は立ったまま、知覧までバスに揺られることになったのでした。

教訓:知覧に行くにはマイカーが主流。遠方からの旅行客は早めにバス停に並ぶか、レンタカーを利用するべし

   

そうして到着した知覧での特攻関連のお話は5月1日の「二十数年ぶりの南九州旅行を決行中(3日目)」に書きましたので割愛しまして、知覧特攻平和会館の隣りにあるミュージアム知覧(南九州市立博物館)の展示でかなり気になったものがありましたので、こちらを書きます。

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ミュージアム知覧には、私が訪問したとき企画展「婚約者への手紙~最期に、君に伝えたいこと~」が開催されていた特別展示室のほか、「山や大地や海に生きた南薩摩の人々の生きざまを、生き生きと再現しました」という民俗展示室、そして「南九州の歴史と、火山との関わりからひもといていきます」という歴史展示室があります。

で、「かなり気になったもの」というのは、歴史展示室の「知覧のかくれ念仏」の展示でした。

かくれ××」といえば「かくれキリシタン」しか思い浮かばない私、「かくれ念仏」とは初耳
いったい何でしょうか

ミュージアム知覧のワークシート(ふりがな付き)から引用します。

江戸時代、薩摩藩を治めていた島津氏は一貫して仏教の中で「一向宗」を禁止しました。一向宗とは、現在でも鹿児島県で最も信者の多い「真宗・浄土真宗」のことです。信者たちは「南無阿弥陀仏」と称えることで自分の心を表していました。信者たちが、禁止されているにも関わらず隠れて念仏を称えていたので「かくれ念仏」といいます。
島津氏が一向宗を禁止した理由については、当時の、武士・百姓・町人・その他の人々という身分制度にとって不都合だったためとか諸説がいわれていますがはっきりしたことはわかっていません

だそうです。

「家の柱をくり貫いて中に仏さんを隠した」という「秘仏の柱」とか、役人に見つからないように船に乗せて海上で拝んだという「御影像(みかげぞう)」とか、人々が隠れて講を開くときにかけていたという「親鸞聖人御絵伝」「蓮如上人御絵伝」といったものが展示されていました。

江戸時代、キリスト教は幕府が禁止していたわけですから(法律みたいなもの)、薩摩藩内でも禁止でしょうが、薩摩藩内に限って一向宗も禁止されていた(条例みたいなもの)こと、しかも、その理由が判っていないことなんて、まるで知りませんでした。
武士・百姓・町人・その他の人々という身分制度にとって不都合だったため」なんて、薩摩藩以外でも共通した話でしょうに、それを敢えて薩摩藩だけが禁止していたのはなぜなのでしょうか?
薩摩の一向宗が独自の宗論を持っていたのか、はたまた、島津のお殿様が一向宗の坊さんに何らかの恨みを抱き(例えば気に入っていた女性を寝取られたとか…)、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、子々孫々まで「一向宗禁止」を申し伝えたのか・・・。

いずれにしても興味深い事実に巡り逢えました

   

こうして2時間半ちかく知覧平和公園で過ごした私は、次なる目的地「知覧武家屋敷」に向かいました。

できることなら路線バスに乗って行きたいところ(所要時間7分、運賃150円)でしたが、あいにくと時間が合わず、歩いて行くことにしました。

中途半端なタイミングながら、知覧での私の周遊ルートを載せておきます。

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知覧平和公園から知覧の街に下る道沿いには、特攻隊員の遺族や友知人たち関係者が寄進した石灯籠がズラリと並んでいました

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知覧の街でひときわ目立つ古い建物があります。

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特攻隊員から母と慕われていたという鳥濱トメさんが経営していた陸軍の指定食堂「富屋食堂」を復元した「ホタル館 富屋食堂」です。
今は資料館になっているようですが、私は角を右に曲がって、外観を拝見しただけで素通り…。

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そして、麓川にかかる小さな歩行者専用橋をわたると、武家屋敷の始まりです。

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ようこそ武家屋敷庭園へ」の看板には、「入園チケットをお求めのうえご観覧ください」と書かれています。
武家屋敷の街並みを見たいだけで、庭園はどうでも良かった私は、そのまま武家屋敷通りへと入っていきました。そして、鹿児島地方検察庁知覧支部の裏にある案内図を見ていると、後ろからおばさんの声が…。

ここから先は、また後ほど

つづき:2011/08/15 南九州旅行記(その13:鹿児島・知覧の巻②)

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