三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ユダヤ教とイスラームの戒律(2)

2020年07月10日 | 映画

『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』で秋吉輝雄さんは、ユダヤ教やイスラームだけでなく、キリスト教でもセブンズデー・アドベンチストやモルモン教、エホバの証人などの新宗教は旧約聖書の戒律に帰る傾向があると語っています。

ヤスミラ・ジュバニッチ『サラエボ、希望の街角』では、主人公の友だちが黒いチャドルで全身を覆うようになったこと、同棲している恋人が結婚していないからとセックスを拒んだことなど、イスラーム原理主義に関わるエピソードがありました。
戒律を厳格に守れば、自由が制約されますが、それでも原理主義に共感する人が増えています。



ダルデンヌ兄弟『その手に触れるまで』の主人公アメッドはベルギーに住む13歳。
イスラム教過激派の導師に影響されて、母親から「一か月前はゲーム三昧の普通の子だったのに、導師に洗脳されて部屋で祈ってばかり」と言われるまでに急進的な考えを持っています。

ダルデンヌ兄弟はインタビューでベルギーのムスリムについて説明しています。

ベルギーでは人口約1100万人中、50万人がムスリムで、イスラムは2番目に多い宗教です。雇用差別は今も少しはありますが、大半のムスリムは同化しています。ベルギーで暮らしているムスリムにはマグレブ系、モロッコから来た人たちが多いです。

https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/o/614447/

『その手に触れるまで』の公式HPによると、ブリュッセル西部に位置するモレンベークは、10万弱の人口のうちイスラム教徒が5割程度、地域によっては8割を占め、その多くがモロッコ系です。
http://bitters.co.jp/sonoteni/sp/intro.html
アメッドを演じたイディル・ベン・アディもモロッコからの移民3世。

戒律を重んじるアメッドは、ヘジャブをかぶらず、酒を飲む母親を「酔っ払い」と言います。
一日5回、メッカの方角に向かって行う礼拝の前に口をすすぎ、顔を洗うなどして丁寧に浄めます。
礼拝の時間を守ろうとするアメッドが少年院の教官と争うシーンがあります。
少年院には礼拝できる部屋があり、礼拝自体は特別なことではないようです。

アメッドは犬を恐れていて、犬のよだれは汚いからと言います。
ネットで調べると、イスラム教では豚と犬は不浄の存在だそうです。
犬の唾液は狂犬病の象徴で、犬を恐れる必要がなくなっても戒律を変えない。
同じように、豚肉を食べない戒律は衛生上の問題や餌や水が大量にいるといったことから生まれたそうですが、今も豚肉を食べないのは戒律の絶対性があるからでしょう。
https://seiwanishida.com/archives/7711

放課後クラスの先生(ヘジャブをかぶっていない)はアラブの歌謡曲を使って現代アラビア語を学ぶ講座を作ろうとします。
導師は「お前の先生は聖戦の標的だな」と言います。
保護者の集まりでは賛否両論。

「アラビア語はコーランで学べばいい」
「自分はコーランで学んだが、取扱説明書などが読めなくて苦労した」
「カイロでも歌でアラビア語を勉強している」
「エジプトはほとんどがムスリムだが、ベルギーでは少数派だ」
「アラビア語ができるほうが仕事の選択肢も増える」

ヘジャブをかぶっている女性でも、賛成する人がいれば、反対の人もいます。
アシッドが少年院でアラビア語の読み書きを教えるシーンがあるので、アラビア語が読めない人は少なくないようです。

映画の冒頭で、アシッドは放課後クラスの帰り際、先生と握手をしません。
先生に「帰る時は先生と握手して」と言われ、「大人のムスリムは女性に触らない」と答えます。

(イスラームは)とても禁欲的で保守的です。女性は外出する際には肌を見せてはならず、男女の婚前の恋愛は手を繋ぐことすら禁止、豚肉や酒類も口にすることはできません。

https://neco.cafe/n/ncb4f5c28030b

アシッドは白人の女の子が好きになり、キスをします。
異性と握手するだけでもいけないのにキスをし、しかも女の子は改宗を拒みます。
罪を犯したと考えたアシッドは精神的に追い込まれてしまいます。
『その手に触れるまで』という題名が大きな意味を持ってくるわけです。

ラジ・リ『レ・ミゼラブル』はパリ郊外の貧困地区が舞台。



ひげを伸ばした大人たちが子供たちに「親を敬い、礼儀をわきまえるように」と諭し、モスクに来るように誘う場面があります。
過激派を育成しているのかと思ったら、ケバブ屋の主人は、以前は悪さをしていたが、ムスリム同胞団によって更生したという人物です。
ムスリム同胞団によって地域の麻薬が激減したと警官も言っています。
信仰が彼らのアイデンティティーを支えているように思いました。
ただし、キリスト教徒やユダヤ教徒などの異教徒、無神論者には一線を引いているように感じました。

排他性は『ロニートとエスティ』にも感じます。
冒頭で、シナゴーグでロニートの父が説教をします。
神は天使と獣、そして人間を創造した。
天使は神に従い、善しかなさない。
獣は神に創られたとおりに本能のまま行動する。
天使と獣はどちらも創造主の命令に従う。
人間は選択の自由を与えられている。

自立して自由に行動しているように見えるロニートは獣、ラビとして律法に従うドヴィッドは天使、夫とロニートの間で選択に悩むエスティは人間の象徴かもしれません。
人間であるエスティがどういう選択をするか。

ロニートとの再会とほぼ同時に、エスティの妊娠がわかり、神の御心だとドヴィッドが言います。
ロニートが家を出てからドヴィッドとエスティが結婚したのだから、結婚して10年以上はたっています。
正しい人であるドヴィッドは迫害され苦難に満ちたユダヤ人の象徴であるなら、出産は神に従うユダヤ人へのごほうびじゃないかと思いました。

ラビの追悼式で、ドヴィッドは「自由を与える」と言ってシナゴーグから出ていきます。
そうして、エスティは自由意志によって律法に従うことを選択します。
そのあと、3人が抱き合います。
既婚者は異性に触れてはいけないわけですから、ドヴィッドは神の教えに背く行動を取ったことになります。
原題は「disobedience(不服従)」。
エスティの選択には何か意味があるのかもしれません。

ユダヤ人(=ユダヤ教徒)は原理主義、そして他民族の排除のために迫害されたが、そのことによって現在まで存続したのではないかと、フィンケルシュタイン、シルバーマン『発掘された聖書』を読んで思いました。
原理主義は信者をまとめる大きな力になっているように思いました。


コメント
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