三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

浅見雅男『皇太子婚約解消事件』

2015年01月17日 | 

天皇ファンである私にとって浅見雅男氏の著作は興味深い事実を教えてくれて面白いです。
『皇太子婚約解消事件』は、明治26年に大正天皇の婚約者として伏見宮禎子(さちこ)が内定していたのに、明治32年に禎子の健康問題で解消された事件について書かれています。

皇族は天皇家の一族で、天皇になるかもしれない人たちだけども、いろいろあるんだなと思いました。
浅見雅男氏の他の本も参考にしながら、皇族についてご紹介します。

明治以前、皇族は宮家を継ぐものを除いてほとんどは出家し、門跡寺院と称される名門寺院で一生を送った。
それは皇族の数が増えることを防ぎ、ただでさえ乏しい皇室財政の負担が増えたり、皇族の権威が失墜するという事態も未然に阻止できるからである。
ところが慶応4年、新政府は皇族の出家を禁止した。
となると、皇族が増えることになる。
明治天皇と伊藤博文たちの葛藤が最もあからさまになったのは、永世皇族問題である。

伊藤博文は明治31年、皇室についての意見書を明治天皇に差し出した。

(臣籍降下の)制を立てられざるに於ては、帝位継承上に統属を増加し、随て非望の端も之より生ぜざることを保し難し。

皇族が増えてしまうと皇室財政の負担が大きくなるから、皇族の臣籍降下を制度化しようとしたのである。
お金の問題だけでなく、小松宮彰仁親王(「御品行不宜」)、北白川宮能久親王(外国での女性関係のトラブル)、閑院宮載仁親王(同じく女性問題)、久邇宮朝彦親王(厄介な存在)ら親王の不品行も関係している。
また、皇位継承権をもつ皇族が増加すれば、その中から皇位をうかがうものが出ないともかぎらない。

ところが、皇族の臣籍降下を皇室典範で定めようとした伊藤博文の主張を明治天皇は完全に無視し、その種の規定を典範に盛りこむことを断固として認めなかった。

伊藤博文は大正天皇の資質に不安を持っていたということがある。
『かざしの桜』(佐佐木高行の書いたもの)にある伊藤博文の皇太子評。

「皇太子殿下にも兎角御軽率の御天質にて」
「(父の天皇とは)大御反対なり」


久邇宮邦彦王の娘良子女王が皇太子妃に内定していたが、大正天皇の皇后、山県有朋、原敬たちが反対していた。
それに対し、邦彦王は山県たちが婚約を辞退するよう勧めるのに猛反発した。

皇后に自分の主張を述べたてた言上書を渡し、しかもそれを第三者に見せ、さらには民間の壮士をつかって怪文書をばらまかせさえした。まさに皇族としてありえない暴挙であった。しかし、結果的に王のゴリ押しは通ってしまった。

宮中某重大事件当時、大正天皇は心身不調に悩まされており、混乱の収拾にほとんど関与できなかった。

事件の背景には皇族をめぐるこんな問題が関係している。

明治の皇室の中心には強い求心力をもった天皇がおり、その周囲には伊藤博文に代表される、天皇に有益な助言ができる臣下がいた。天皇は彼らの意見もよく質し、皇室の問題についても思慮に富んだ決断をし、皇族たちもそれにしたがった。
ところが大正時代になると、状況は大きく変わる。それを最も明確にあらわしたのが大正九年五月に起きた「皇族降下に関する施行準則」制定のときの騒ぎであった。

伊藤博文たちは皇族がどんどん増加するのを防ごうとしたが、明治以降に誕生した皇族たちは既得権がうしなわれることを嫌い、反対の動きに出た。

そして年長の皇族と宮内省の巧妙な連携で準則制定が実現すると、皇太子も出席する天皇の賜餐をボイコットするという露骨な真似をする。言うまでもなく天皇をないがしろにした行動であり、これが山県有朋を激怒させ、半年後に起きる宮中某重大事件につながっていくのである。


宮中某重大事件は山県有朋による不当な干渉だと思っていましたが、こんな背景があったとは知りませんでした。

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