三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

自己評価の低い人たち

2010年02月26日 | 

『誇大自己症候群』や『他人を見下す若者たち』を読んでひっかかったのは、誇大自己症候群や仮想的有能感によって、「最近の若者は」とか「凶悪犯罪の要因はこれだ」とかいったふうにあらゆる事象を説明しているところである。
これでは疑似科学になりかねない。
どういうことかというと、カール・ポパーは、アドラーが劣等感という言葉によってすべての事例を説明することに疑問を持ったことから、フロイトの精神分析やマルクス主義のように、何でも説明できる理論(反証不可能)を疑似科学とした。
どういうことでも解釈することができる理論はあやしいと思ったほうがいい。

で、私も疑似科学の真似をすると、人を見下してバカにし、つまらない自慢をするのは、自分の中に何もなくて、だけどそれを認めるのがいやだからだと思う。
そして、自分には何か特別な能力があると思い込むことで自分を支える。
これは依存の仕組みと同じだと思う。(いつもの風が吹けば桶屋がという話です)
依存症とは、自分の中に何もない(自己評価が低い)ので、その空虚を依存対象物によって埋めて自分を支えることじゃないかと最近考えている。
アルコールや薬物がとまると、また元のように自分の中が空っぽになり、孤独、空虚感に耐えられず、スリップしてしまう。
依存症がとまると別の依存対象物が出てくるそうだし、新興宗教のはしごをする人は珍しくないのも同じ。

雨宮処凛、萱野稔人『「生きづらさ」について』の中で、雨宮処凛氏が右翼団体に入ったことについて、
「それしか拠り所がなくて、探しに探してやっと見つけたもの、みたいな感覚が私にはあった」「そこを否定されちゃうと「死んじゃうしかない」という気持ちがすごくわかる」と語っている。
「右翼にいったのは、いまから分析すると、「誰にもどこにも必要とされてない」という心情とすごく関係があったと思います」
オウムのサリン事件から二年後ぐらいのころで、その右翼団体には元オウム信者が二人ぐらいいたそうだ。
「オウムを脱会して日本の社会で生きようと思ったけれど、こんな日常には何の意味もない、という感じでうまく着地できない。(略)それまで「世界を救う」という大きな物語のなかにいた彼らは、結局、戻ってきて単純作業なんかしても、それで満たされるはずもない。(略)とはいえ、またオウムに戻るわけにはいかず、私たちのいた団体に入ってきたわけです」

つまりは、自己評価の低さを、薬物で全能感を持ったり、宗教で救われたように思ったり、人を見下して優越感を抱いたりして補おうとするわけである。
私の場合はアクセス数で自己評価を高めたいのだが、そうはいかずに落ち込むわけです。

で、ここで疑問が生まれてくる。
町山智浩『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』に、チャーリー・ブラウンの苦悩は作者のチャールズ・シュルツの実体験だとある。
「シュルツはチャーリーと同じく貧しい理髪店の息子に生まれた。父も母も愛情表現が苦手で決して息子を誉めなかった。シュルツは「両親から求められていない」と感じ、自分に自信が持てず、シャイで内向的な人間になった」
シュルツは赤毛の女性にふられ、代わりに自分から積極的に迫ってきたバツイチで子連れのジョイスと結婚する。
「ジョイスはエネルギッシュでおしゃべりで自己中心的で、両親と同じく彼の仕事を評価せず、愛情を示すより「もっと稼いで」とガミガミ怒ってる時のほうが多かった」
シュルツは48歳で浮気をして離婚。
その後、浮気相手とも別れ、「明るく元気で、何よりもシュルツの才能を絶賛してやまない女性と出会って再婚。彼は50代にして生涯初めて安らぎを覚えた。
ところが、『ピーナッツ』ではチャーリーの自己嫌悪もルーシーの毒舌もパワーダウンしてしまった」

幸せになったら優れた芸術が作れなくなるとは人生の皮肉です。

速水敏彦氏はルーシーがまさに仮想的有能感の典型だと言う。
両親から認めてもらえなかったシュルツは、ルーシー(最初の妻のジョイスのようなタイプ)ではなく、チャーリー・ブラウン(自信の持てない、自己評価の低い人間)となった。

疑問というのは次の三点。
1,なぜ自己評価が低いのか。
2,自己評価が低い人間でも、劣等感が強くて自信が持てない人がいれば、誇大自己、仮想的有能感を持つ人がいるのはなぜか。
3,どうしたら自己評価を高めることができるか。

コメント
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