子どもがカルトに入信したらどうすればいいのか。
ダルク家族会の方の話を聞いて、カルトと薬物依存は対処の仕方が同じかもしれないと思った。
子どもが覚醒剤をやっていると知ったら、親としてはとにかくやめさせようとするだろう。
しかし家族会の方が、親子夫婦でも他人だ、他人は変えられない、子どもは子ども、私は私、と言われたのにはいささか驚いた。
子どもの回復ではなく、自分自身の回復なんだ。
自分が回復したからといって子どもが薬物をやめるかどうかはわからない。
そして、尻ぬぐいはしないのが基本で、本人がサラ金で借金をして請求されても代わりに払うことはしないし、交通事故を起こしたり窃盗で逮捕されても後始末を肩代わりしない。
そういった話を聞いて、そりゃ薄情じゃないかとまず思った。
親としての責任はどうなのか、子どもの不始末を処理するのは親のつとめじゃないかと。
だけど、話を聞く中で、人をコントロールすることはできないことに気づかされた。
自助グループ(薬物依存に限らない)ではラインホルド・ニーバーの「平安の祈り」を大切にする。
神様 私にお与えください
自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを
変えられるものは 変えてゆく勇気を
そして二つのものを 見分ける賢さを
他人は変えられないが、自分の考えや物事の受け止め方、対応の仕方は変えることができる。
そして、フレデリック・パールズの「ゲシュタルトの祈り」(訳は二種類あるらしい)。
私は私 あなたはあなた
私は私のことをする
あなたはあなたのことをする
私はあなたの期待にこたえるために
この世に生きているわけではない
あなたは私の期待にこたえるために
この世に生きているわけでない
あなたはあなた 私は私
偶然ふたりが出会えば それはすばらしいこと
出会わなければ仕方のないこと
どの自助グループでもこの「平安の祈り」と「ゲシュタルトの祈り」を勉強していくんだそうだ。
人を救うことができるのかということは『歎異抄』第4章、第5章の、そして他者を私物化するということは『歎異抄』第6章の問題である。
「私はあなたの期待にこたえるためにこの世に生きているわけではない」という一節は子どもから言われたようできつい。
じゃあ、何もせずにほっておくのかというと、そうではない。
「愛情をもって手を放す」という言葉がある。
愛情はなくならないし、絆は切れない。
だけども境界を引く。
それが尻ぬぐいは一切しないということである。
「本人が気づくために家族のできることがあるかというと、モノとお金を与えない、相談には必ずのる、それぐらいですかね」
「そんなことを言いますと、親御さんたちは「悪くなるまでただ見守っているだけですか」と言われます。現実はそれに近いですね。それほどこの病気は簡単じゃない。ほんと簡単じゃないんですよ。1年2年じゃない、10年単位のレベルですから、腹くくってかからないと」
カルトへの入信でも同じだと思う。
無理矢理やめさせようとするのは逆効果(イネイブラー)であり、「愛情をもって手を放す」ことだけが家族にできることだろうと思う。
そういえばホームレス支援をしている人の話だと、本人の気持ちを尊重することが大切だという。
たとえば、アパートを借りて生活保護を受けることが多いのだが、それはいやだと言う人には決して無理強いしない。
私だったら、せっかく親切に言ってるのにと気を悪くするにちがいない。
私は今まで妻や子どもをコントロールしてきたし、今もコントロールしようとしている。
ところが、子どもが小さいうちはともかく、大きくなればコントロールされることをいやがる。
そこでケンカになるわけである。
子どもが洗礼を受けたいと言い出したら、私は烈火の如く怒り、いつまでもぐだぐだと言い続けるだろう。
いやはや。