「中央公論」2005年5月号に、東野圭吾「わたしが現代版“仇討ち”を描いた理由」というインタビュー(をもとに編集部が構成したもの)が載っている。
「現代版“仇討ち”」とは、娘を強姦されて殺された父親が犯人に復讐するという『さまよう刃』のことである(私は未読)
このインタビューで東野圭吾は『手紙』の社長と同じことを言っている。
偏見、誤解のある主張だし、東野圭吾と同じ意見の人も多いと思うので、長々となるが、ちまちましつこく問題点を指摘してみたい。
1,どういう犯罪や犯罪者を東野圭吾は問題にしているのか
「日々、事件が起きています。犯罪件数は一年間で三百五十万件を超えているそうです。一日一万件の犯罪が起きている」と冒頭にある。
一日に1万件も犯罪があるのか、と誰もがまず驚く。
しかし、ネットを見ると、2006年11月までの一年間の認知件数は189万4677件(前年同期比9.9%減)で、年間では205万件程度と予測され、2002年の285万3739件と比べると大幅の減少とある。
350万件というのはどこから持ってきた数字だろうか。
認知件数とは、警視庁のHPによると「被害の届出等を受理するなど警察がその事件の発生を確認した件数」なのだが、そのすべてが実際に犯罪だとはかぎらない。
浜井浩一『犯罪統計入門』によると、「平成12年から刑法犯認知件数は激増したが、それは犯罪発生件数が増加したのではなく、警察の対応が変化したことに起因していると考えられる」そうだ。
また、犯罪の多くは万引き、自転車盗、車上狙いといった軽微なものである。
インタビューの続きを読むと、そういう軽微な犯罪のことを問題にしているのではない。
万引きや自転車盗の被害に遭った人も悔しい思いをしているだろうが、この記述はそういう軽犯罪の被害者ではなく、殺人とか強姦といった犯罪被害者のことを言っている印象を受ける。
というのも、その後に少年犯罪についてこのように触れている。
読者としては、殺人、強盗、強姦、放火といった凶悪犯罪が一日に1万件も起きているようにイメージしてしまう。
万引きと殺人をごっちゃにして論じているからだ。
また、『手紙』のように、貧困から窃盗をしたら、はずみで殺してしまったような事件(映画『手紙』は明らかに傷害致死)もある。
それと、日本での犯罪のピークはずっと以前から15歳である。
犯罪を犯した少年をいかにして社会が受け入れ、再び罪を犯さないようにするかがが大切であり、そのために少年法では教育を重視している。
ところが、大人と同じように少年を扱うのでは、せっかくの教育の機会を奪うことになる。
「犯罪者を年齢で線引きして裁」く意味はあるのに、東野圭吾はそれを知らないだけである。
2,人権とはどういう意味か
東野圭吾のインタビューでは、このあと人権について語られる。
この文章だけを取り上げると、被害者とは殺人の被害者だけを指しているようだから、東野圭吾は人権と人命とがごっちゃになっているように感じる。
基本的人権ということでいえば、刑務所に入ると人権が制約される。
居住・移転の自由はないし、外部との通信は制限されるし、選挙権もない。
「加害者の人権がすべて守られる」わけではない。
「被害者の人権は奪われているのに、加害者の人権が守られているのはおかしい。だから加害者の人権も奪え」という意見をよく見かける。
被害者の人権が守られるのは当然のことだが、報道による二次被害によって、被害者の人権を損なう現実がある。
加害者の人権を奪ったから被害者の人権が守られるわけではない。
弟さんを殺された原田正治さんはこういうたとえを言われている。
どんな人の人権も大切だという基本線だけは動かせない。
それと、刑法では「無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」とあるが、実際は10年では出られない。
「犯罪件数は一年間で三百五十万件を超えているそうです」とか「早ければ七、八年刑期を務めると仮出獄できるといわれています」など、「そうです」「いわれています」という曖昧な言い方で間違ったことを書いては困る。
このいい加減さはインタビューを構成した中央公論の編集者に責任があるわけだが。