三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

東野圭吾『手紙』

2006年12月12日 | 厳罰化

東野圭吾『手紙』の主人公は、高3の時に兄が強盗殺人で捕まったため、音楽をあきらめ、恋人と別れ、そしてさまざまな苦労をしながら生活せざるをえなくなる。
主人公がバンドをやめるところまではいい小説だと思ったのだが、田園調布のお嬢様との恋愛あたりから、いかにも作り物という感じがし、そして勤め先の社長の脳天気なお説教には腹が立った。

主人公は兄のことを隠して家電量販店に就職したものの、兄が刑務所にいることがばれて左遷させられる。
○量販店の社長との一回目の会話
社長は「差別はね、当然なんだよ」という言う。

・理由その1 犯罪の抑止効果

だから、犯罪者はそのことも覚悟しなきゃならんのだよ。自分が刑務所に入れば済むという問題じゃない。罰を受けるのは自分だけではないということを認識しなきゃならんのだ。

我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる―すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね。

犯罪抑止のために家族への差別は必要だというわけである。
しかし、犯罪者の家族を差別することによる犯罪の抑止効果はあり得ない。
主人公の兄は弟のためを思って窃盗をしたのであり、最初から殺そうと考えていたわけではない。
犯罪者に自らの罪を思い知せるために家族を差別しなければならないなんて、すごく上から目線である。

そもそも、加害者家族を差別するのは悪しき正義感にすぎない。
その正義感が時には家族を自殺に追いやる。
そして、犯罪者の家族を差別するのが当然なら、出所者も差別するわけだろう。
更生しようとする者の足を引っ張ってどうするのか。

 ・理由その2 会社の利益

君に対してどう接すればいいのか、皆が困ったのだよ。本当は関わり合いになりたくない。しかし露骨にそれを態度に示すのは道徳に反することだと思っている。だから必要以上に気を遣って接することになる。逆差別という言葉があるが、まさにそれだ。

人事部の処置が間違っていないと言ったのは、そういう状況を踏まえてのことだよ。差別にしろ逆差別にしろ、他の従業員が仕事以外のことで神経を使わねばならないようでは、お客さんに対して正常なサービスなどできないからね。そして差別や逆差別といったものがなくならない以上、君を別の職場に移すしかない。そういったことによる悪影響がなるべく出ない職場にだ。

殺人犯の弟が職場にいては社員が動揺し、そのことで客に対するサービスが低下する、だから差別はやむを得ないというわけだ。
だったら、社員に更生保護について教育すればいい。

この二つの理由は人権無視なのだが、主人公は少しもわかっていない。
小説の登場人物の意見が作者と同じだと決めつけるべきではないが、社長の言っていることは東野圭吾自身の考えらしい。

そうして社長はこういうことを言う。

本当の死と違って、社会的な死からは生還できる。その方法は一つしかない。こつこつと少しずつ社会性を取り戻していくんだ。他の人間との繋がりの糸を、一本ずつ増やしていくしかない。君を中心とした蜘蛛の巣のような繋がりが出来れば、誰も君を無視できなくなる。

本当のつながりを作るためには、兄を知ってもらわないといけない。
しかし、兄のことがばれると、社長のような人間が生活を壊してしまう
ほんと口ばかりの人間である。

○社長との二回目の会話
主人公は結婚して子供ができ、社宅に入ったが、ここでも兄のことがばれてしまい、3歳の娘は誰とも遊んでもらえなくなる。
社長と二度目に会った時、そのことを社長に話すと、社長はこんなことを言う。

今の話を聞いていて、残念だと思う部分がある。それは、君はまだ完全には私のいったことをわかっていないようだということだ。

君はまだ甘えている。君も、君の奥さんもね。

神経を疑っていまう。

逃げずに正直に生きていれば、差別されながらも道は拓けてくる――君たち夫婦はそう考えたんだろうね。若者らしい考え方だ。しかしそれは甘えだ。自分たちのすべてをさらけだして、その上で周りから受け入れてもらおうと思っているわけだろう? 仮に、それで無事に人と人との付き合いが生じたとしよう。心理的に負担の大きいのはどちらだと思うかね。君たちのほうか、周りの人間か。

正々堂々、というのが君たち夫婦のキーワードのようだから敢えていわせてもらうよ。その、いついかなる時も正々堂々としているというのは、君たちにとって本当に苦渋の選択だろうか。私にはそうは思えないな。わかりやすく、非常に選びやすい道を選んでいるとしか思えないが。

しかし、主人公は「自分たちのすべてをさらけだして」はいない。
兄のことをずっと隠しながら、しかし知られてしまって不利益を被ることをくり返している。

だったらどうすればいいのかと聞きたくなるが、社長はこう言う。

答えなんかないよ。いってるだろう。これは、何をどう選択するか、なんだ。君が自分で選ばなくては意味がない。

何なんだ、これは。

たしかに差別をなくすことは不可能である。
しかし、誰も遊んでくれないという女の子の痛みを想像できるなら、社長として、個人として、何かできることはないかと模索すべきだ。

ところが、社長は何もせず、お説教をたれ、自分を正当化するだけである。
自分のしていることに無自覚でありながら、えらそうなことを言う人間が、新たな差別を生み出すのである。

○社長との三回目の会話
主人公はその後、会社を辞め、兄へ絶縁の手紙を出す。
三度目の、そして最後の社長との会話。

君は何も間違っていないよ。人間として正しくあろうとしただけだ。でも実際のところ、何が正しいかなんてことは、誰にもいえんのだよ。さっき君がいったようにね。ただ、これだけはいっておこう。君が選んだ道は、簡単な道ではないよ。ある意味では、これまでよりももっと辛いかもしれん。何しろ、正々堂々、といった旗印がない。すべての秘密を君が一人で抱え込み、仮に問題が生じた場合でも、一人で解決しなければならないんだ。

またまた馬鹿なことを言う。

主人公は今まで「すべての秘密を一人で抱え込み」、何か問題があれば「一人で解決しなければならない」道を歩んできたのである。
誰かが手を差し伸べてもいいじゃないか。

作者は当然のことながら主人公の苦労を知っているが、社長は知らない。
人の苦労を知らないで勝手なことをほざいているクソ馬鹿社長を、作者は徹底的に批判すべきなのに、主人公は社長の言うことをなるほどと聞くんですぜ。
人間として破綻して社長が主人公を導く老賢者として描かれている。

非常に不愉快な小説だった。
保護観察所の職員や保護司の感想を聞いてみたい。

(追記)
東野圭吾の復讐肯定論です。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/30a2d8aa85daf765105c18ecdfbf1d98

コメント (17)
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