11月23日の毎日新聞には、「中島岳志的アジア対談」があり、映画監督の森達也がゲストだった。
題は「戦前「右派」の可能性から」
中島岳志「小泉純一郎前首相は、特攻隊の史料館で素直に感動し、靖国に参拝した。でも特攻隊の感情は、もっといろいろだったはず。つまり、単純な涙はむしろ感情や想像力の欠如かもしれない」
あいまいな言い方、感情のレベルでの論理といえば「愛国心」である。
オリンピックで日本選手を応援することから、国家のために命を捧げることまで、愛国心にもいろいろある。
しかし、国を愛するという国とは何か、どのように愛するのかといったことがはっきりしない。
「語り継ぐ」にしても、何を、何のためにか、である。
万田邦敏『ありがとう』は、阪神大震災で商店街が全焼した人たちを描いた映画。
映画の中で「安らかにお眠りください」という言葉が何度か出てくる。
広島の原爆慰霊碑に書かれてある「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を思い起こした。
この慰霊碑の言葉については批判がある。
しかし、実際に震災や原爆を経験し、多くの人の死を目の当たりにした人たちは、「安らかに眠ってほしい」と言わずにはおれないと思う。
しかし、感情にとどまったままでは、その涙は何かに利用されるかもしれない。
「特攻隊の史料館で素直に感動」し、日本も核武装を、ということになりかねない。
慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」という言葉が続く。
『ありがとう』の主人公は、多くの人が亡くなったという過ちをくり返さないために「災害に強い町を作るんや」と行動する。
森達也はこういうことも話している。
日本政府は北朝鮮に対する医薬品や米などの人道支援を凍結した。その結果、何千人、何万人もの子供や老人が死んでいるかもしれない。だとしたらこれは、9・11を理由にアフガンやイラクに侵攻して、より大勢の犠牲者を出したアメリカと同じです。こうした多面性への視点は、他者への想像力とも言えます。不安や恐怖を理由に、人はこの視点を忘れてしまう。不安や恐怖は「分からない」ことから発動する。ならばメディアが健全に機能すれば軽減できるはず。ところが機能しない。危機をあおった方が、部数は伸びるし視聴率も上がるから。
我々の多くは北朝鮮に対する制裁を当然のことと考えている。
しかし、制裁によって国民が餓死するかもしれないとは想像もしない。
これは虐待する親が「しつけだ」と自己正当化するのと同じである。
「しつけだ」と思って暴力を振るうが、その結果を想像できないらしい。
虐待事件のたびに不思議に思うのは、多くの親は死んだ子供を病院に連れて行くこと。
暴行する、食事を与えない、医者に診せない、それなのにこのままでは死ぬのではないかと考えないのだろうか。
イジメにしてもそうである。
これだけイジメによる自殺者が増えているのに、イジメで自殺するかもしれないと、いじめっ子は考えないのか。
他者の痛みを想像する力が欠如している。
こうした想像力の欠如、無神経さを東野圭吾『手紙』に感じた。
『手紙』は、犯罪加害者の家族が差別の中で生きているということ、加害者の家族も被害者なんだということを正面から描いた小説である。
強盗殺人で刑務所にいる兄を持つ主人公は、家電量販店に就職したものの、兄の事件が知られて左遷させられる。
社長は「差別はね、当然なんだよ」という言うのである。
加害者の家族が差別されるのは当然だという理由。
1,犯罪の抑止効果
2,会社など共同体の秩序、安定の維持
社長の「どうしようもない、としかいいようがないかな」という発言の無神経さには驚くほかない。
「犯罪者の家族」の「犯罪者」を、「ハンセン病者」「精神病者」「障害者」「在日」などに置き換えたらどうだろうか。
やはり「差別は当然だ」と東野圭吾は言うのだろうか。
あるいは「差別」を「格差」と言い換えてもいい。
小泉純一郎は「格差は当然」と言った。
底辺で生活する人の痛みをわかったうえでの発言ではなく、ただ単に格差があるのは仕方ないという程度のことだろう。
首相としてあまりにも無責任である。
『手紙』は100万部以上売れているそうだし、ネットでの評価も高い。
読者は「差別は当然」論をどう思ったのか。