藤井誠二『少年に奪われた人生―犯罪被害者遺族の戦い―』は重たい本である。
少年法が改正されるまでは、加害者が少年の場合、被害者や家族は、事件はどのようにして起こったのか、どういう審判を下されたのか、そうしたこと一切を知らされないし、意見を述べることもできなかった。
そこで、事件について知りたいと思う被害者や家族は、警察や学校に説明を求めたり、損害賠償の訴訟を起こすなどする。
ところが、被害者側のそうした行動はまわりの人から白い目で見られ、時には非難されることもある。
こうした大衆の悪意はいったい何なんだろうか。
『少年に奪われた人生』に取り上げられているが、飯塚市で女子高校生が教員の体罰で死んでしまうという事件があった。
ところが、被害者である生徒に対する悪口や誹謗が飛び交い、生徒のほうが悪かった、教師はかわいそうだ、ということになってしまった。
被害者は二度死ぬ、である。
実は、私もこの事件を知った時にそう思った。
その女生徒はワルだったんだろう、たまたま打ち所が悪くて死んだんじゃないか、教師も災難だなと。
私も女生徒を二度目に殺した一人である。
一昨日の毎日新聞に、JRの脱線事故での犠牲者名を実名で報道すべきか、匿名にすべきかという検証記事があった。
しかし、犠牲者の実名を知る権利など私にはないし、まして顔写真を見る権利などない。
事実を記録するためには新聞以外の手段がいくらでもある。
しかし、家族が突然なくなってすぐなのに、取材に対して冷静に応答できるものだろうか。
もちろん「自らの気持ちを吐露したい人もいる」ことは間違いないし、吐露することは大切であるが、それを新聞で公表すべきかどうかは別問題である。
しかし、未成年者が犯罪を犯した場合、匿名報道である。
だからといって報道の具体性が欠けているとは思えないし、事実の検証が困難になっていないのではないか。
雑駁に言ってしまえば、その「不安」とは、私たち大人が犯罪を犯す少年に対して抱いている「恐れ」のようなものではないか。人を殺す「子ども」を「理解」できないがゆえの「恐れ」。
と藤井誠二氏は書いている。
私たちが持っている「不安」「恐れ」は、マスメディアによって増幅されている。
「今の子どもは何を考えているかわからない」というふうに。
だからといって、大衆の悪意をマスメディアだけのせいにはできない。
人間の本質に関わる部分から悪意が生まれてくるような気がする。
それにしても不思議なのは、殺されたら未成年であっても実名報道される。
人間の人権は死とともに消失するということなのだろうか。