「御遠忌テーマの願い」には、
「「今」という言葉は、自覚をうながす呼びかけの言葉として押さえたい」
「今を今として受けとめて生きよという自覚をうながす念仏の声」
「「今」「いのち」という言葉を自覚語として掲げたいのである」
などと、「自覚」という言葉がやたらと出てくる。
自分は自覚しているが、みんなは自覚していない、だから自覚をうながしているんだという、高みに立った言い方のように感じる。
でもまあ、「今」はいいとしましょう。
問題は「いのち」です。
まず、どうして「命」ではなくて「いのち」とわざわざ平仮名なのかという疑問。
「こころ」もなぜか平仮名でよく使われる言葉だが、平仮名にしなければいけない理由があるのだろうか。
「いのち」には「寿のいのち」と「命のいのち」があって、「寿」は「阿弥陀のいのち」「無量寿のいのち」、「命」は「自我のいのち」だと説明される。
「いのちがあなたを生きている」の「いのち」とは「無量寿のいのち」ということだろう。
たぶん、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、「私が生きているのではなく、無量寿のいのちが生きている」と自覚してほしいという呼びかけだと思う。
しかし、それだと、「いのち」という実体的実在があると受け取られてしまうのではないか。
「私」が生きているのではなく、「いのち」という実体が生きているんだとなると、「いのち」とは霊という意味になる。
たとえば悪霊が私に取り憑いていて、私を操っているという感じか。
もちろん、「生きている」主体が悪霊でなくて、神でも何でもいいのだが。
小河原誠『ポパー』にこういうことが書いてあった。
プラトンの『イオン』に「神はわざと最も平凡な詩人をとおして、最も妙なる歌をうたった」という文章があるそうで、これは芸術は人間個人に由来するのではなく、超人間的(神)なものに由来するという考え方、すなわち、芸術家が芸術を生み出すのではなく、芸術家をとおして神が自己表現するのが芸術だ、ということである。
御遠忌テーマの「いのち」と「あなた」の関係もこれと同じで、「あなた」という場をとおして「いのち」が自己表現しているということになると思う。
こういう実体的な「いのち」の実在を、釈尊は否定している。
「阿弥陀のいのち」という考えは梵(ブラフマン)ではないかと思う。
蓮如上人五百回忌御遠忌スローガンは「帰ろう もとのいのちへ」がが、これでは梵我一如とどう違うのか。
桜部建『真宗としての仏教』にこういうことが書いてある。
そして
へえ~と驚きました。
「お与えのいのち」ということばを真宗では伝統的に使うが、そのことについて桜部建先生はこう言っている。
親鸞や蓮如の言葉にはない「お与えのいのち」とは何か。
天地自然から授かったいのち、だから感謝して大事にと、そういうことでないかと思います。
桜部建先生が御遠忌テーマについてどういう意見を持っているかお聞きしたい。 それより、桜部建先生に御遠忌テーマに関する委員会に入ってもらっていたら、と思わずにはいられません。 陳腐化しているうえに、意味不明の「いのち」という言葉はあまり使わないほうがいいと思う。