三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

片山杜秀『近代日本の右翼思想』

2008年06月17日 | 

右翼と保守と左翼とどう違うのか、片山杜秀『近代日本の右翼思想』によるとこうなる。

現在を否定─┬─右翼―過去                                                  
                   └─左翼―未来                                                 
現在を肯定───保守

右翼も左翼も現状を否定する。
違いは、右翼は失われた過去(事実そうではなくイメージにすぎないかもしれない)を志向し、左翼は未来の理想を追う、ということである。

「失われた過去に立脚して現在に異議を申し立てるのが右翼」
「過去や現在よりも必ず桁違いによくなると信じられる未来の理想図に賭ける。そういう空中楼閣のような、まだつかめていないものに立脚して、現在を変えようとする勢力が、左翼である」
「保守をより具体的に定義し直せば、それは、現在を尊重しながら、過去から汲めるものを汲み、未来のイメージから貰えるものを貰って、急進的に乱暴にならずに着実に動いて行くもののことになるだろう」

保守を美化しすぎという気もする。
「保守と中道には大した違いはない」
と定義上ではなるそうだ。

したがって右翼や左翼は、過去の事実、あるいは過去のイメージ、もしくは未来への理想によって現在を変革しようとする。
「反動勢力と左翼とは、現在に不満を持って現在を変えてしまいたいと考えることでは共通する面がある」

で、これからが面白いのだが、右翼が美化する過去は天皇と結びつけられるのだが、否定され、改革されるべき現在にも天皇が存在する。
右翼としては天皇を否定するわけにはいかない。
「「好ましからざる現在」の代表者である天皇が、「好ましい過去」の代表者でもあるという、現在と過去が癒着した迷宮に必ず迷い込み、失われた過去と現在ありのままとがまぜこぜになり、分かちがたくなってしまう」

そこでこうなってしまう。
「日本近代の右翼の思想史には、まず現在をいやだと思って過去に惹かれ、過去に分け入ってその果てに天皇を見いだし、その天皇が相変わらずちゃんといる現在が悪いはずがないのではないか思い直し、ついには天皇がいつも現前している今このときはつねに素晴らしいと感じるようになり、現在ありのままを絶対化し、常識的な漸進主義すら現在を変改しようとするものだからと認められなくなり、現在に密着して、そこで思考が停止するという道筋が、うかがえるように思われる」
そして、現在を礼賛して終わるということになってしまってるそうだ。

たとえば三井甲之という人は、
「万世一系の天皇がいつもいることで日本が存立し、神である天皇がつねに国を支えているのだから、日本はいつも安心であり、国民は神を礼拝していればよい」
「天皇のもとでの日本は誕生のときから今この瞬間までいつも素晴らしいのである」

という、天皇におまかせする考えで、阿弥陀の本願と天皇の本願云々まであと一歩である。

安岡正篤氏は
「北一輝や大川周明のように、いきなり社会制度の具体的変革・修正を考えるのは邪道である。まずは人間なのだ。精神を立派にすることだ。社会の上に立つ者が、ひいては社会を構成する者すべてが、教学に目覚めて人格を陶冶し、君子の域へと達してゆけば、もしかして制度など何もいじらなくても、すべては平らかになり、うまくゆくかもしれない」
という考えを一貫して持っていたそうで、つまりはみんなが心を入れ替えれば平和な社会が生まれるという考えと通じる。
「企業経営者や中間管理職のための人生の指南書の著者」としてもてはやされるのも納得である。

で、思いだしたのがクロード・ガニオン『keiko』という映画。
つき合っていた男が妻子持ちだと知り、それを主人公(keiko)が責めると、「今この時のおれしかないんや。今のおれが好きなら他のことはどうでもいいやろう」みたいな言い逃れを言う。
この男も、現実の問題に目をつむって「現在ありのままを絶対化」してくれと言っているわけだ。

片山氏は日露戦争後から「大東亜戦争」期に至る右翼的な思想とは
「今の日本は気に入らないから変えてしまいたいと思い、正しく変える力は天皇に代表される日本の伝統にあると思い、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだからじつはすでに立派な美しい国ではないかと思い、それなら変えようなどと余計なことは考えないほうがいいのではないかと思い、考えないなら脳は要らないから見てくれだけ美しくしようと思い、それで様を美しくしても死ぬときは死ぬのだと思い、それならば美しい様の国を守るために潔く死のうと思う」
という流れだと言う。

こうした右翼のねじれた思いは李纓『靖国』を見ていても感じる。
8月15日、軍服に身を包み、ラッパの音に合わせて行進してくる一団、「天皇陛下万歳」と万歳三唱する人たちがいる。
コスプレじゃないかというのが第一印象。
そして、英霊に感謝し、二度と戦争をしないと誓うのならば、彼らは過去の負の遺物である軍服やラッパを捨て去るべきだが、そうしない。

戦後日本を否定し、目指すところは過去にある、それなのに戦後の天皇を批判はしないという点では、彼らはまさに右翼である。
さらには、2・26事件での青年将校の決起が反乱とされたのは昭和天皇が激怒したからだが、彼らは反乱軍将校を逆賊だとは考えないどころが美化している。
天皇無謬論であるはずの三島由紀夫が『英霊の声』で昭和天皇を批判しているのとは大いに違っている。
ねじれがさらにもうひとひねりされている。

右翼と保守とは定義上は異なっているはずなのに日本では似た存在なのは、本来、現在を否定するはずの右翼が天皇の呪縛の中で現在を肯定せざるを得なくなっているからかもしれない。

で、保守派と言われる人の中に、GHQの政策が日本の伝統を壊したとか、日教組が戦後の日本をだめにしたと言う人がいるが、この人たちは現状を否定しているわけだから、保守ではなく右翼ということになる。

   
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4 コメント

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Unknown (ふくえんじ)
2008-06-17 18:49:37
興味深いお話ですね。僕ら世代になると、自らがどちらなのか(右なのか左なのか)立脚点が曖昧なまま、極端(とあくまでも主観的に感じる)な意見を持つ人に対するレッテル貼りのような形で(exネット右翼とか)使っている事が多いような気がします。

また、右か左かという二者択一の選択肢に対する抵抗もあってか、あるいはそうした立場を明確にしなければ生き辛かったであろう親世代からの反動もあってなのか、なるべくバランスの良い立場(中道なのかどうかはわかりませんが?)を取る人が大半な気がしますね。

ただ、そういう状態はどちらにも流れうるだけに右でも左でも「カリスマ」的な存在の人間が出てくると一気にポピュリズムのような方向にいってしまうのでは?という危険性もある気がします。
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非・バランス ()
2008-06-19 16:31:22
なるほどもっともなご指摘の数々です。
現在を否定するのは簡単だし、かっこいいですよね。
現在を肯定し、一歩一歩あゆんでいくほうが難しい。
となると、真正保守なんているのかと思ったりします。

>極端(とあくまでも主観的に感じる)な意見を持つ人に対するレッテル貼り

自分と考えの違うことがあると、十把一絡げにしてレッテル貼りをしてしまいがちです。
サヨクというのもそうですね。
たとえば、死刑反対はサヨクと言われますけど、じゃ、死刑賛成の人は死刑大国中国をほめるのかというと、もちろんボロクソ。

>そういう状態はどちらにも流れうるだけに右でも左でも「カリスマ」的な存在の人間が出てくると一気にポピュリズムのような方向にいってしまうのでは?

本当にバランスのいいい立場ならば、流されてもそのことに気づくはずです。
「親からの反動があって」と言われている立場というのは、考えない、もしくは立場を持たないということで、だからこそ流されっぱなしなのではないでしょうか。
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Unknown (ふくえんじ)
2008-06-20 01:37:04
なるほど、バランスのいい立場と「シラケ・無関心」or定見が無い状態は別なのかもしれませんね。

実際僕自身ももし左か右かという選択を迫られると抵抗を感じると思いますが、それでもその際はなんらかの自分なりの見解・ヴィジョンというものは提示する必要があるなあと感じています。
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立脚地 ()
2008-06-20 14:52:38
>なんらかの自分なりの見解・ヴィジョンというものは提示する必要があるなあと感じています。

その見解とは何かということですね。
よく立脚地という言葉が使われるでしょう。
「吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず」
そこがはっきりしているかどうかが問題だと思います。
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