人類が進歩しているとして、進歩の実例の一つは、障害者、老人、病人といった社会的弱者を切り捨てていたのが、家族だけが世話をするのではなく、地域・社会が援助し、受け入れるようになったという歴史だと思う。
大昔なら、身体障害者が生まれると、おそらく放っておかれたか、殺されただろう。
姥捨て伝説ではないが、ある程度までしか老人や病人の面倒を見なかったと思う。
今は、犯罪者を刑務所に入れて隔離するだけでなく、更生、社会復帰への支援がなされている。
ところが、飽食の現代日本では、弱者をかまっていたのではやっていけないというので、弱者切り捨ての政策が着々と進んでいる。
まずは人件費の削減のため、正社員を減らし、契約社員、派遣社員を増やす。
公務員ですら非正規化が進んでいる。
自己責任を声高に叫んで、社会保障を減らそうとする。
母子家庭は収入が減り、子供が進学できず、格差はどんどん広がることになる。
障害者自立支援法ができ、介護保険制度が見直しとなり、障害者や介護が必要な人は自分で何とかしろ、ということになった。
当分は国や県が補助をいくらか出すらしいが、負担は大きい。
母親を施設に預けている方の話だと、月5万円の負担が16万円になったそうだ。
身体障害者を預かる養護施設や障害者支援をする施設も、国からの補助金が減り、利用者に負担がかかるようになった。
たとえば、障害のある子供を毎日、支援施設にあずけて、夫婦共稼ぎしていたのが、負担増で週に三回になると、妻は子供の面倒を見るために仕事を辞めないといけない。
障害を持ったのも、年をとるのも、病気になるのも、すべて自分責任だから自分でなんとかしろ、国は面倒を見ませんということになっていくのか。
厳罰化も結局は切り捨てることで、「飲酒運転で死亡事故を起こした者も死刑にしろ」と言う人がいれば、「光市母子殺人事件の加害者は裁判にかける必要はない。さっさと殺せ」などと裁判を否定する意見がマスコミでも当たり前のように言われている。
60歳以上の受刑者は10%を越している。
彼らのほとんどは刑務所を出ても行くところがない。
だから、無銭飲食や万引きをして刑務所に戻ることになる。
ということで、刑務所は老人ホーム化し、刑務官が寝たきり受刑者のオムツを交換する。
いじめた生徒は出席停止にするという提案がなされているそうだ。
気持ちとしてはわかるが、では彼らはどこに行けばいいのか。
児童相談所に勤めていた人が、いじめる側も家庭や勉強などの問題を抱えていて、その状態をそのままにして、いじめたからと断罪するだけではマイナスにしかならないと言ってた。
ホームレス襲撃事件があるが、ホームレスを襲う子供は、どちらかというと成績はあまりよくないとか、いじめられてたりして、弱い立場にいる子供が多く、だから逆に弱い者をいじめるんだそうだ。
学校や家庭でしんどい思いをしてる子供たちが、しんどい生活をしているホームレスを襲撃するという図式である。
彼らには行き場がないのに、教育から切り捨てられたらどうなるのか。
余計者、邪魔者、お荷物だとしてを切り捨てるのでは、歴史の逆戻りである。
政府やマスコミの口車に乗せられ、「自己責任だ」「勉強できないのは、勉強しない自分が悪い」「あんな奴は殺せ」の大合唱をしていたら、結局は自分が泣くことになる。
(追記)
新型コロナウイルスによる感染症が広がり、日本の医療体制が万全とはいえないことが明らかになりました。
保健所は1990年度に850カ所あったのが、1994年に保健所法が地域保健法に改正されると、おおむね人口10万人当たりに1カ所設置するとしていた指針が廃止され、統廃合が進み、2019年度は472カ所です。
大阪府では1990年度に53カ所あった保健所が18カ所に減少、常勤の医師や保健師は20年間で6割に減っています。
橋下徹はツイッターでこんなことを言っています。
病院の数、ベッド数も減少しています。人口あたりのICUのベッド数も少ない。
日本ではICUの多くに専従医/専門医が配置されていないそうです。
日本は二流国になったのでしょうか。
最新の画像[もっと見る]
-
植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 3年前
-
植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 3年前
-
植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 3年前
-
ボー・バーナム『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』 5年前
-
森達也『i -新聞記者ドキュメント-』 5年前
-
日本の自殺 5年前
-
日本の自殺 5年前
-
アメリカの多様性 5年前
-
入管法改正案とカファラ制度 6年前
-
マイケル・モス『フードトラップ』 6年前
「不可触」という言葉を使うべきではないと思います。
山廣元校長の講演を聴いたことがあります。
ファンが大勢いるのに納得できましたが、嫌う人は嫌うだろうなと思いました。
生徒に「もとの学校へ帰れ」「邪魔」「あなたはみんなに嫌われている」「むかつく」「顔が派手」とか言ったらしいですが、そんなことを言いそうだなとも感じました。
荒れた高校を立て直すためには、そういう人じゃないと難しいのかもしれませんけどね。
山廣康子広島音楽高等学校校長解任の理由がわかりました。職務上、服務規律を指導した一部の教師・職員・生徒が不可触であり、彼らの抗議を正邪にかかわらず丸呑みし、大多数の生徒・保護者の意見を聞こうともしない田中明宏理事長兼輪番は・・・。
このコメントが削除されずにいたら、「やまひろやすこ」で検索してみてください。広島の教育の劇的な向上の実践者です。
この部分は引用がヘンで何が何だかわからなくなってしまいました。
朝田さんのテーゼ③を、日本共産党は「解放同盟は、国民を差別されると差別をする一般人という二つに分け、被差別に生まれていない人はすべて差別を無意識のうちにするように育つ」と解釈し、それを解放同盟の見解として主張したということです。
ということですが、足を踏んだということは客観的事実でしょう。
主観的事実として人を裁くのはどうかなと思います。
もちろん、当人がつらい思いをしたことは事実ですが、セクハラした本人に悪気がなかった場合、その人も被害者になってしまうのではないでしょうか。
そのあたり、どう考えていいのか、今の私にはわかりません。
どうでしょうか。セクハラをした人にも(私的な)弁明の機会を与えるべきというのが、裁判制度のあるこの国におけるスジ論ではないのでしょうか。
http://www.moeom.com/diary/d.php?id=stck2505&yy=2005&mm=07&dd=24
足を踏まれたものが痛いといえば差別だ。。。の初出が↑にあります。
また朝田善之助さんのテーゼが「朝田理論」でした。正確な文章をあげておきます。↓「朝田理論の登場」
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/burakumondaico/ayumi.htm
日本共産党は、このテーゼ③を「問題を『差別される』と『差別する一般』と図式化し、『部落住民以外はすべて差別者』として排撃する排外主義」と言ってました。
何が差別なのか、差別と言うほうが差別しているのか、差別されているのか、どうもすっきりしません。
前に書いたかもしれませんが、セクハラというのは「ハラスメントかどうかの判定は、あくまでも受けた側の主観が尊重される」ということですから、こういうことがセクハラというのではなく、不快と感じるかどうか、された人がセクハラだと思ったらセクハラだ、ということでしょう。
同じことを言ったり、したりしても、ある人には好感を持って、ある人に対してはセクハラと感じるということだってあるわけです。
悪い人ではないんだけど、なぜか人に好かれないタイプの人というのがいて、こういう人はただでさえ生きにくいのに、こうなるともう何もできない状態になってしまうのではないかと思います。
で、「仏教はロハス的な要素を持っていて」ということ、坊さんはこういうのにすぐ騙されてしまうんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/LOHAS
http://www.ccv.ne.jp/home/kyosaiji/page018.html
これって画期的なことなのか、すでにあることなのか。大谷派ではどうなんでしょう。団体の一員ではなくて、個人として講師に呼ばれた人はあるのでしょうが。↑に灘本昌久さんの「さよう心得よ」からの脱却という言葉がありますが。
被差別者が差別だというから、いちおう謝っておくというのは、自分がそう思わないけれども誰かがそう思うからそうしておく。。。というアイロニカルな没入ですかね。で、ほんとうにそこを問題にしないから、また差別事件が起こるのではないかと私は思うんですね。
で、↓。カフェばやりですね。佐伯祐正さんは80年前にされてたそうですが。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070928-00000012-zdn_lp-sci
「少年院在院生が矯正教育のプロセスの中で真に「被害者へ謝罪したい」という発意に対する、対処実践を通じて」とか「修復的司法について語ろう-対立・対話・包摂-」とか。
本村さんは被告に会う気がないそうですが、残念です。
このシンポジウムに参加されたらいいのに。
13:00から16:00まで。
犯罪者の社会復帰を真剣に考える
~矯正保護とソーシャル・インクルージョン~
というシンポジウムがあります。聴講無料。
あの山本譲二さんもこられるし、「ソーシャル・インクルージョン」という言葉を流行らせた炭谷茂さんもこられます。
楽しみです。
http://hansha.daishodai.ac.jp/meeting/index.html
趣味の会だったら仲良しグループで十分でしょうけど、運動というかぎり、それでは自己満足にすらなりませんよね。
分裂が自己批判、弁証法的発展になればいいですが、単なる足の引っ張り合いになったりして。
>立場の固定化に対して警鐘を鳴らしておられました。
どこかでこじれると、今まで平気で言っていたことが言えなくなってしまうことがあるでしょう。
何でもない冗談のつもりでも、何か言われたらと思うと、つまらない冗談も言えなくなります。
こちらも相手を色眼鏡で見てしまうし。
現実はうまくいかないものですね。
http://www.nponara.or.jp/kenren/koe_01fuzita.htm
お東さんの息苦しいとこは、差別問題で解放同盟主流派に近い考え方以外を述べることが憚られたことです。
解放同盟タブーですね。私は密かに荊(冠旗)のカーテンと呼んでいましたが。
批判の禁止といいますか。でも厳しいことも言ってくれてこそ同じ人間同士の付き合い、友だちだと思うのですが。つねに遠慮がつきまとう人間関係というのもどうなんでしょうね。
ティク・ナット・ハンの詩では、あらゆるものが縁起存在であることを表現されてました。信田さよ子さんのブログでは、人は加害者にもなりうるし、被害者にもなりうると。藤田さんは、立場の固定化に対して警鐘を鳴らしておられました。仏教徒ではない人の考察に何か仏教的なものを感じる私です。
いろんな考えがあるのは当然ですが、ばらばらでばらばらになってしまっているのが現状でしょう。
原水爆禁止運動でも分裂してしまい、一般の共感を失ってしまったように思います。
ごく普通の人が素朴な感覚で「おかしい」と思う気持ちをすくい取る運動がベストだと思いますが、実際は難しいんでしょうね。
http://www.tomo-net.or.jp/info/event/021129.html
http://www.icho.gr.jp/news_each.php?eid=00055
どちらかといえば、解放同盟の主流派の方々のお話が多いですね。お東のお坊さんで藤谷俊雄さんという方がおられます。部落研究では著名な学者さんですが、まずこの人の名前をお東の内部では聞くことがありませんでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E8%B0%B7%E4%BF%8A%E9%9B%84
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
もちろん人間の興味、関心、知りうる範囲は限られてますが。いろんな党派、教派があることは、これはこれでオモロイですね。先にあげた奈良の解放同盟にしても、互いが譲れない一線があるから分裂しているわけですが、分裂の中身をみるとそれなりの必然性を持っていたことがわかります。
派閥争いはどこにでもあるんですね。
その争いをうまいこと利用する人もいるわけで、複雑怪奇魑魅魍魎と言ったら怒られそうですが。
ホームレス支援団体にもそういう問題がありまして、あくまで行政と対決しようとする側は、行政の仕事を請け負った団体にネガティブキャンペーンを張るようです。けど、本音のところはどうなんでしょうね。
ホームレスの人に生活保護をとらせ住居と食事を提供してその保護費の大部分を取り上げる「貧困ビジネス」団体はこういう「運動団体」とは違ったところから出てるようです。で、旨味を吸うためにはやはり大規模に展開しなければいけないようです。
今日ニュースを見ていたら、奈良市の職務怠慢・解放同盟員のことをやってましたが。でも奈良の解放同盟にもイロイロあること、みんなご存知なのでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061026/nara
要求しないと行政はなかなか動いてくれないし、動いてくれたら、正当な要求をしたからだ、これからはもっと要求しよう、ということになったら困ります。
どうなったら満足するのか、どうしたいのかがはっきりしないまま、目的と手段の逆転が起きるわけですね。
http://www.osaka-minkoku.info/orz/index.php?e=2418
写真を見ると「強制代執行」とありますが、正しくは「行政」の誤りです(笑)。その下の写真には
「トイレを正常に使わせろ」とありますが、ご自分たちがほぼ占拠して、詰まらせたにもかかわらずこういうことを書くのはどうかなと思います。
ここにはかつて仮設一時避難所がありましたが、
http://www.npokama.org/kaihou/kaihou9/kaihou9-2.htm
そこでは仕事に就くための技能講習や清掃事業をはじめとする職をあっせんしていました。しかし、急進的な「支援」団体はこういう取り組みに対しても批判しています。いったいどうすればいいというのでしょうか。いちゃもんつけるのはカンタンなんですよね。
不快な気持ちになられたこと、大変申し訳ございません。
「人生のお荷物」は五所平之助監督の映画の題名ですが、たしかにきついので、ルイス・ブニュエル監督の「忘れられた人々」に変えました。
おっしゃるように、国や企業が責任逃れをし、弱者を切り捨てているのが現実です。
そうした現状を何とかあらためていく動きに、私も関わっていきたいと思っています。